音楽に関するいろんな本を読んでいます。 たまたま昨日読んだ本におもしろいことが書いてありました。 福井一:音楽の謀略
水戸黄門の理論 音楽を聴くとなぜ感動するのか。 心理学や哲学方面から研究されたものの中で最も面白いのが アメリカ心理学者マイヤーのものである。 「(心理的に)反応しようという傾向が阻止されたり制止されたりすると 【情動】が喚起される。 反応しようとする傾向は、その人が聴いている音楽についての それまでの経験の結果(学習)である。その経験から、ヒトは 今聴いている音楽について次にどんなパターンがくるかということに 関する期待(反応しようとする傾向)をいだく。 予期したパターンの結果(遅れて来るか、まったく来ないか)に応じて 緊張もしくは情動が喚起される」
この本の著者は このマイヤーの理論を水戸黄門の理論 と呼んでいる。
テレビの「水戸黄門」が人気がある理由は この番組の「形式・様式」によるからである。 形式・様式は、バロック形式や古典様式というふうに音楽でも使うが 要するにその作品に特有の、一定かつ特徴的なパターンのことである。
すなわち水戸黄門には一定の特徴的なパターンが存在する。 それは、大きく起承転結の流れに即している。 物語の最初に黄門様に誰かが救いを求めてくる。 そして水戸黄門の一行が解決に乗り出す。 中間では多少の(適度の)波乱−−ハラハラドキドキ−−があるものの 最後は「印籠」が出てきて、「ハハー、恐れ入りました」で終わる。 それも必ずハッピーエンドになるのである。 この安定感がお年寄りにうける原因であろう。 どんでん返しで黄門様が殺されてしまうなんてことは絶対にあり得ない。 もちろん、毎回同じパターンでは飽きられてしまうから、多少の変化はある。 もっともおなじみのものは、助さん格さんが印籠を出し、水戸黄門であることを 名乗るのだが、悪人がそれを認めないケースである。 「ご老公の名をかたる大悪人! 皆のもの、かまわん、討ち取れ」と 斬り合いになるケース。でも、もちろん最後は黄門一行が勝ち、めでたし、めでたし。
つまり、この番組では形式が一定している。
黄門一行という中心的登場人物が変化しない。 そして最後は必ず悪が滅びる形で解決する。 もちろん場所や時間などの設定が違うし、個々のストーリー展開も異なる。 その部分が「変異・変化」である。 しかし話の筋書きはパターン化されているし、結論も同じだ。 視聴者はそのことをあらかじめ経験(学習)して知っているのである。 だから多少のハラハラはあっても、最後は必ず解決することを知っているし だからこそ、ハラハラドキドキした方が、あとがスッとするのである。
実は西洋音楽の構造や形式・様式もこれとよく似ている。 もちろんこれにはポピュラー音楽も含まれる。 まず音楽は、決まった形式で作られている。 もっとも基本的なのは、和声と呼ばれる形式である。和音といってもよい。 和音はたくさんあるが、その中で、ドミソ、ファラド、ソシレが基本の和音である。
西洋音楽はドミソで始まって、ファラドやソシレを経て、最後はドミソで終わる。 もちろん音楽はこの和音だけでできているのではない。 実際はもっとたくさんの和音が含まれている。
そこで作曲家の出番となる。 作曲家はこの形式にしたがって曲を作っていくわけだが、そのやり方で才能が分かれる。 あまりに聴き手の期待通り音楽が進むと、聴いた方は安心感はあるものの、当たり前すぎておもしろくない。 逆に複雑すぎてあまりに期待に反すると、理解できない、難解な印象をもってしまう。
才能ある作曲家の手腕は、様々な和音をいかに聴き手の期待を上手にはぐらかしながら入れ込んで、曲を作り上げるかにかかっている。 期待が適度に裏切られると、「あれっ」と思う。そうすると作品に引き込まれていく。 才能ある作曲家の作品は、じつに巧妙に期待に反する部分を埋め込んであり、知らず知らずのうちに、聴き手を魅了してしまう。
この理論によると、感動するためには、その音楽文化の文法(形式や構造)をあらかじめ学習している必要がある。 でないと、次に何が来るかまったく予想(期待)できないからだ。
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