[No.531]
Re: 瀕死の白鳥
投稿者:男爵
投稿日:2012/03/22(Thu) 12:14
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瀬里恵さん こんにちは
> サンサーンスの「白鳥」をBGМに踊る「エリアナ・パヴロワ」です。
> 1920年(大正9年)、ロシア革命から逃れて日本に入国。1927年(昭和
> 2年)神奈川県鎌倉市腰越津村及び七里ガ浜浜東にバレー教室を開設、
> 「東勇作・橘秋子・貝谷八百子・島田廣(谷桃子の師匠)」など 大勢の
> バレリーナを育てました。
> パヴロワは 1927年(昭和12年)日本に帰化した。日本名「霧島エリ子」
ロシア革命からのがれて日本に来て
たくさんの音楽家を育てたのは
小野アンナもそうです。
小野アンナ(アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワ Anna Dmitrievna Bubnova, 1890年3月14日 - 1979年5月8日)
父親はロシア帝国官僚、母親は貴族出身。
語学と音楽に秀でた母親の影響のもとで、ブブノワ3人姉妹はみな芸術家となり、姉ワルワーラは美術家に、妹マリヤはピアニストに成長する。
ペトログラードで同地の日本人留学生・小野俊一(ロシア文学者・生物学者・昆虫学者・社会運動家)と出逢い、1917年5月に結婚。
翌1918年革命下のロシアを離れ、東京に赴く。
長男の俊太郎を出産後、音楽の早期教育をほどこすが、俊太郎が虫垂炎で少年期に夭折したため、俊一との関係もうまくいかなくなり離婚した。
その後も長らく「小野アンナ」名義で日本でヴァイオリン教師として教鞭を執り、戦後は武蔵野音楽大学で後進を指導するかたわら、請われて桐朋学園子どものための音楽教室にも務めた。
1958年に、姉ワルワーラとともにソ連に渡り、グルジアのスフミ音楽院にてヴァイオリン科教授に就任した。
(ものの本によると離婚後も元夫小野俊一はアンナの世話をし続けた。小野俊一が亡くなってから彼女はソ連に帰国したという)
教師としての小野アンナは、音楽教室の主宰者としてだけでなく、早期英才教育の唱導者としても知られた。また、1961年の『ヴァイオリン音階教本』(音楽之友社刊)は、理論的・体系的なヴァイオリン教本の一つとして、日本のヴァイオリン学習者に愛用されている。
日本人女性ヴァイオリニストの生みの親と呼ばれたように、戦前には諏訪根自子(すわ ねじこ)や巌本真理(いわもと まり)を、戦後は前橋汀子や潮田益子らを輩出した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A