夏子さん、こんばんは。 数えで14、5歳ですよ。 > > え?旧制中学の2年生って、年齢はいくつ? > 10代半ばまで行くか行かずか、という年頃でしょうか? > > 頑張られたんですねぇ。その頃のご自分を思い出すと、愛おしくなることでしょう! 父が早逝し、お嬢さん育ちの母・一歳年上の姉・4歳年下の弟 一家の暮らしの 6割以上を稼がねばなりませんでした。 もうそりゃ必死、でも んん十年たつと苦しかった、辛かったよりよくやれたなと 楽しく???思いだします。 > > > 卵を沢山産ませるため、動物蛋白は後輪の太い自転車で朝の暗いうちから買い出し?に、魚屋や蒲鉾屋で頭や腸(はらわた)を貰って積んで帰ってました。 > > 直系4,50センチの大鍋で炊くんです。草菜を加えて、、これが餌。 > > なんせ150羽単位で成鶏舎が2つ、他に育雛室が1つ。 > > うーーん・・・凄いとしか言いようがありませんm(_ _)m 1947年、戦後の猛烈な食うものの欠乏で 死に物狂いでしたね。 結構私みたいな一家の生計を支えている少年も居ましたよ。 > > > トラップネストと云う(今の方 分りますかね)リンゴ箱を真ん中で2つに仕切り、 > > 産みに入ったらパタンと戸が閉まって出られない を何十と作りました。 > > 見回って”コッコッコケコッコー”と産んだよ で 蓋を開いて卵を取り出して、足に > > 番号を付した鶏環ってので番号をみて、壁に貼ってある表 (横縦)番号と○を記入。 > > 生みが悪くなったら、業者に売って、、、と経営?を していましたよ。 > > 若くても、立派な事業家だったのですね。いったい、どこで習われたのでしょう。
飯塚の雛を売ってくれる種鶏場でも習いましたが、考え工夫して、、 ミカン箱って今見ませんが、あってもトラップネストのようなものは作れません。 時代と、背負わざるを得ない 状況に追い込まれ、火事場の馬鹿力でしょうか。
オアシス
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