みなさんは今までに観た芝居や映画に、たくさん思い出があるでしょう。
心に残る芝居、楽しかった映画
それから俳優や女優について思うことをどんどん書いてください。
もちろん最近見た芝居や映画、これから見たい舞台や映画も歓迎します。
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[No.586]
Re: 地獄の黙示録
投稿者:DeBugman
投稿日:2013/10/15(Tue) 10:08
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おはようございます。
> ヴェトナム映画批判のようでしたが
> 難解な映画という評判でした。アメリカの大島渚?
劇場公開版はかなりカットされていたようです。上映上の時間的制約かもしれませんが、難解だったのはカットせい(と思いたいのです)。
カンヌでパルム・ドールを受賞しているのですから、なみの映画ではありません。ノーカットDVD版があるとのことで、レンタルショップに行きます。
[No.584]
花は咲く
投稿者:ザックス
投稿日:2013/10/15(Tue) 09:14
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いつ聞いてもいい歌ですね。
昨夜 Il Divo の唄をTVで聞きました。とてもよかったので以下に上げます。
http://www.youtube.com/watch?v=jNi6nzh_0gM
いい歌は言葉、国境を超えますね。
[No.583]
Re: バルトの楽園
投稿者:男爵
投稿日:2013/10/15(Tue) 08:05
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画像サイズ: 800×600 (70kB)> 「バルトの楽園」(バルトのがくえん) 公開 2006年
>
> 第一次世界大戦中の徳島県鳴門市の板東俘虜収容所が舞台で
> 収容所所長・松江豊寿の活躍や、俘虜となったドイツ兵と地元の住民の交流などを描いた作品。
この映画は上京していたとき
探して品川のホテルの裏の映画館で見ました。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6244
そのあとは
ドイツ行きの飛行機の中で見ました。
二度見ると、最初は気の付かなかった点もわかりました。
> 松江は俘虜に対し人道的な扱いを心がけ、俘虜による楽団がベートーヴェン「交響曲第9番 歓喜の歌」を日本で初めて演奏した。
会津出身の松江豊寿は
戊辰戦争の敗戦後、青森県下北半島の斗南藩に移住した会津藩士たちの苦労を知っていたから
敗戦で捕虜となったドイツ兵たちの辛さや悲しさを推察できたのです。
松江は「ドイツ兵も祖国のために戦ったのだから」と敬意を表し、「武士の情け」を口癖にし、俘虜を信頼した自主性を尊重する寛容な態度を貫きました。
のちにドイツに帰った兵士たちは、板東での生活はよかったと懐かしんだといいます。
松江はのちに会津若松市長となります。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin01.htm
[No.582]
バルトの楽園
投稿者:男爵
投稿日:2013/10/15(Tue) 05:47
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「バルトの楽園」(バルトのがくえん) 公開 2006年
第一次世界大戦中の徳島県鳴門市の板東俘虜収容所が舞台で
収容所所長・松江豊寿の活躍や、俘虜となったドイツ兵と地元の住民の交流などを描いた作品。
松江は俘虜に対し人道的な扱いを心がけ、俘虜による楽団がベートーヴェン「交響曲第9番 歓喜の歌」を日本で初めて演奏した。
タイトルの「バルト」とはドイツ語で「ひげ」の意味で、
松江豊寿やドイツ人捕虜の生やしていたひげをイメージしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E6%A5%BD%E5%9C%92
[No.581]
Re: 蒲田行進曲
投稿者:男爵
投稿日:2013/10/15(Tue) 05:37
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あやさん、こんにちは!
> > 蒲田駅東口を出て右(川崎方向)に進むと大田区役所があります。
> > そこから更に川崎方向に進むと、大田区立生活センターと蒲田駅前図書館の併設施設があり、1,2階が生活センター、3階が蒲田駅前図書館となっています。
>
> ここあたりは比較的最近拓けたところです。以前はありませんでした。
> 何回かしか行ったことないけど、わかります。
そうなんですね。 海側の方です。
では駅の反対側のほうは昔から町があったんですね。
交通も便利で。
たとえば
「昭和のくらし博物館(旧小泉家住宅主屋)」
http://otaku.edo-jidai.com/105.html
ここに行くには
東急多摩川線 下丸子駅下車、徒歩15分
です。
ラジオ深夜便で紹介され、数年前に行ったことがあります。
また
東急多摩川線には矢口渡駅(やぐちのわたしえき)がありますね。
1949年(昭和24年)まで当駅近くに存在した多摩川の渡し船の一つである「矢口の渡し」に由来する。
漫画家・矢口高雄のペンネームは、昔この駅ちかくのアパートに住んでいたからつけたそうです。
この地にまつわる「神霊矢口渡」があるのですが、よくわからないからキーワードだけ書いておきます。
☆ 平賀源内が書いた人形浄瑠璃は、歌舞伎「神霊矢口渡」となる ☆
[No.580]
Re: 蒲田行進曲
投稿者:あや
投稿日:2013/10/14(Mon) 20:59
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男爵さん、こんばんは!
>
> 蒲田駅東口を出て右(川崎方向)に進むと大田区役所があります。
> そこから更に川崎方向に進むと、大田区立生活センターと蒲田駅前図書館の併設施設があり、1,2階が生活センター、3階が蒲田駅前図書館となっています。
ここあたりは比較的最近拓けたところです。以前はありませんでした。
何回かしか行ったことないけど、わかります。
>
> この建物の一階にある店です。
>
> 中国料理 歓迎 (ホアンヨン)本店
>
> http://tabelog.com/tokyo/A1315/A131503/13003304/
拝見しました。遠くから男爵さんが召し上がりにくるなんて、おいしいの
でしょうね。
チャンスがあったら行ってみたいです。
ありがとう!
[No.579]
Re: 二つの「どん底」
投稿者:男爵
投稿日:2013/10/14(Mon) 18:19
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昴 さん
> 先日話題になっていた「大いなる幻影」(37)のジャン・ルノアール監督が前年作ったのがロシアの文豪
> ゴーリキー原作「どん底」、下層社会に生きる人たちの希望と絶望を描いています。
> そしてK澤明がこれを翻案して56年に作った「どん底」、江戸の貧しい棟割長屋での話。
> 泥棒捨吉 三船敏郎、御家人くずれの殿様 千秋実、他に山田五十鈴・東野英治郎・香川京子
> などが出演しています。
これは
気がつきませんでした。
当然今までに出てきてもよかったのに。
http://www.youtube.com/watch?v=prBy6SZzfNM
[No.578]
二つの「どん底」
投稿者:昴
投稿日:2013/10/14(Mon) 14:52
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先日話題になっていた「大いなる幻影」(37)のジャン・ルノアール監督が前年作ったのがロシアの文豪
ゴーリキー原作「どん底」、下層社会に生きる人たちの希望と絶望を描いています。ギャバン演じる泥
棒から這い上がって行く「ペペル」とルイ・ジューベの没落貴族「男爵」の対照的な描写が面白い。
映画の中で歌われた♪夜でも昼でも牢屋はつらい♪は「どん底の歌」(小山内薫訳詞)の題でうたごえ
喫茶でよく耳にしたモノです。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=25458
そしてK澤明がこれを翻案して56年に作った「どん底」、江戸の貧しい棟割長屋での話。
泥棒捨吉 三船敏郎、御家人くずれの殿様 千秋実、他に山田五十鈴・東野英治郎・香川京子
などが出演しています。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=15620
[No.577]
Re: 放浪記
投稿者:男爵
投稿日:2013/10/14(Mon) 14:49
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> > 若き日の菊田一夫は文学青年をこころざし、サトウ・ハチローの世話になる。
> > サトウ・ハチローは父の支援により自分の部屋をもっていて、そこに菊田らを同居させていた。
> 菊田一夫は
> 1925年(大正14年)に上京。印刷工として働くかたわら、文学活動にふけっていた。
> 文京区小石川の伝通院の傍らに、詩人の渡辺渡、民謡詩人の山口義孝らとともに
> 家を借りて、「太平洋詩人」を出していた。
その頃菊田は一緒に仕事をしていた仲間には言わなかったが、人生に深刻に悩んでいた。
彼らと別れて、鎌倉へいった帰りにサトウ八チローのところへ顔を出し
「実は鎌倉で死のうと思ったのです」と正直に打ち明けた。
ハチローが「じゃあ、俺の家にこいよ」と言ってくれたので、以後ハチロー宅の居候兼走り使い、風呂焚きなど雑役係りを務めた。
菊田は自伝にも
昭和4年、サトウ八ローのところに奇食して詩作を学び、その庇護で浅草公園劇場の文芸部に入ったと書いている。
サトウハチローは結婚して家族がいたのだが(関東大震災のときには生まれて数カ月の長女ユリヤを抱えて逃げ回っている)、別居して
当時は池袋の家で美校の学生らと一緒に生活していたらしい。
サトウ八ローは上野の美術学校に偽学生として通い、ストーブを焚いたり粘土こねを手伝っていたという。
あまり堂々としていたから、美術学校の学生も教授も偽学生とは思わなかったそうである。
そのうち、彼らは玩具工房として「ラリルレロ玩具製作所」を立ち上げる。
この玩具の製作にも、菊田は声をかけられ手伝わさせられたらしい。
もっとも要領が悪く叱られてばかりだった。
> 菊田一夫 人間の記録111 日本図書センター(1999)
玉川しんめい著 ぼくは浅草の不良少年 実録サトウ・ハチロー伝 作品社(2005)
[No.576]
Re: 放浪記
投稿者:男爵
投稿日:2013/10/14(Mon) 13:40
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> 「放浪記」
> 1961年10月20日に芸術座で初演された舞台劇です。
>
> 林芙美子の小説「放浪記」をもとに
> 脚本・演出は菊田一夫、音楽は古関裕而、主演は森光子でした。
> 若き日の菊田一夫は文学青年をこころざし、サトウ・ハチローの世話になる。
> サトウ・ハチローは父の支援により自分の部屋をもっていて、そこに菊田らを同居させていた。
> 文学をこころざす彼らのところに、ときおり林芙美子もやってきた。
> 売れない文章を書きながら女給として働いていた林芙美子は
> ときおり一升瓶をさげながら、彼らの所に命の洗濯にやってきたという。
> 彼らの青春を振り返るとき、林芙美子のことが忘れられず
> 菊田一夫は彼女のことを舞台劇にしたのであろう。
菊田一夫は
1925年(大正14年)に上京。印刷工として働くかたわら、文学活動にふけっていた。
文京区小石川の伝通院の傍らに、詩人の渡辺渡、民謡詩人の山口義孝らとともに
家を借りて、「太平洋詩人」を出していた。
その家によく遊びにきたのは、サトウハチロー、小野十三郎夫妻、萩原恭次郎、林芙美子らであった。
そして、一番印象に残っているのは、サトウ八チロー以外は林芙美子だという。
林芙美子は神田の小川町のカフェで働いていたが、下宿の支払いがたまって帰りにくくなると必ず、彼らの家に泊まりに来た。
そういうときのお土産は一升瓶であった。
それも買えないときは、彼らが寄稿を依頼していた「太平洋詩人」に載せるための詩を一篇、まるで宿泊料の代わりに菊田に渡した。
伝通院には、徳川家康の生母・於大の方、千姫、佐藤春夫、柴田錬三郎、浪越徳治郎などの墓がある。
菊田一夫 人間の記録111 日本図書センター(1999)
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