みなさんは今までに観た芝居や映画に、たくさん思い出があるでしょう。
心に残る芝居、楽しかった映画
それから俳優や女優について思うことをどんどん書いてください。
もちろん最近見た芝居や映画、これから見たい舞台や映画も歓迎します。
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[No.451]
Re: 古関裕而
投稿者:さんらく亭
投稿日:2013/10/02(Wed) 09:17
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男爵さん こんにちは
> 古関裕而は福島の商業学校を卒業しただけで
> 正規の音楽教育を受けていないのです。
古関が作曲した夏の甲子園大会の大会歌「栄冠は君に輝く」の30周年に作曲者として開会式に招待された年が母校福島商業高校が6度目の出場の年に当たって入場行進で母校の選手に大きな拍手を送ったそうです。また初戦に勝って20年前に自分が作曲した母校の校歌が初めて甲子園に響いたのをTVで見て嬉しかったことを書いています。
古関裕而作曲、佐藤惣之助作詞 のコンビの応援歌といえば
阪神タイガースの「六甲颪」が1936年の作で、読売ジャイアンツの初代応援歌「野球の王者」より3年も早いのをご存知ですか?
(悔しいけど、阪神が巨人に勝ってるのはそれくらい?)
古関裕而は巨人の現在の(3代目)応援歌「闘魂込めて」も作曲しましたがこれは作詞は別の人です。
本当はどっちのファンだったのかなぁ?
[No.450]
Re: 戦艦ポチョムキン
投稿者:男爵
投稿日:2013/10/02(Wed) 05:58
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昴さん、みなさん
> 戦後直ぐにはなかなか見ることが出来なかった「戦艦ポチョムキン」、ロシア革命8年後の1925年弱冠27歳の
> ソ連の監督エイゼンシュタインの作品で、「映画の弁証法」とかいわれたりして一時期たいへん話題になっ
> た映画です。
> 彼の「モンタージュ理論・技法」に基づいた鮮烈な画面は極めてショッキングで、今でも記憶に鮮やかです。
> 赤ん坊を乗せた乳母車が駆け落ちて行くオデッサの階段シーンはとりわけ有名で、映画「アンタッチャブル」
> でも引用されているとかいいます。
「戦艦ポチョムキン」のオデッサの大階段の上から乳母車が転落するシ-ンなどは
すでに、さんらく亭さんが
「No.200] Re: 「江分利満氏の優雅な生活」で紹介していますが
私もこの映画はテレビで見たことがあります。
水兵の食事がひどいもので(なかには腐ったものもあった?)
これでは暴動も起きると思ってしまいました。
モンタージュ (montage) は、映画用語で、視点の異なる複数のカットを組み合わせて用いる技法のこと。
元々はフランス語で「(機械の)組み立て」という意味。映像編集の基礎であるため、編集と同義で使われることも多い。
モンタージュ技法とは、視点の異なる複数のカットを組み合わせて用いる技法なので
アメリカの映画監督グリフィスの考えたモンタージュでは
複数のカメラを用いて同時撮影し、同じ時刻に多面的な視点からの映像を見る
つまり現在のテレビのドラマでは普通に使われる方法ですね。
黒澤明の「七人の侍」の戦闘シーンで複数のカメラが使用された。
エイゼンシュテインのモンタージュはこれと違うようです。
とすると1台のカメラで写したものを、あとでつなげたということでしょうか。
1台のカメラで写すのだから、視点を変えてまた写してということなので
同じ時間に写したのではなく、多少の時間のずれがあったということでしょうか。
いずれにせよ
犯人の顔の再現に使われるモンタージュ写真をつくるようなものではないようです。
私は、モンタージュと聞くと、いくつかの要素を組み合わせて合成するのかと
思っていました。
合成するのはスーパーインポーズですね。
スーパーインポーズ(superimpose)
多重焼き付け - 複数枚のネガを重ね合わせて1枚の写真を得る技法。
日本語字幕 - 映像に重ねる字幕。
小津安二郎が代表作「東京物語」において別撮りのカット・バックを多用していたのも
モンタージュの一種だと説明しているものもありますが、どうでしょうか。
カット・バック
二つ以上の場面を交互につないで
切り返す場面転換の技法です。
(同一シーンで2人の会話を、1人ずつ喋る順番につないだとしても、それは
カットバックではない)
カットバックは、緊張感を高めるときに良く使います。
たとえば、クルマを運転している人物が歩行者を跳ねよう
とする場合に、運転手と歩行者の危機迫る表情を交互に
切り返すといった具合です。
もうひとつのカット・バックの説明に以下のものがあります。
たとえば具合の悪い子供を看病している母親が
見舞っている子供の友人と会話する場面があったとします。
通常はこの順番に編集しますが、次のように(順序を変えて)編集すると
意味が違ってきます。
http://ivcproduction.naganoblog.jp/e1173330.html
写したフィルムを編集の段階で手を加えると
観客の印象が変わるという説明でした。
[No.449]
Re: 鐘の鳴る丘
投稿者:夏子
投稿日:2013/10/01(Tue) 23:03
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男爵さん、コメント、ありがとうございますm(_ _)m
> 「1945年3月、一家は江刺市の旅館の離れに疎開した。その旅館から小川を隔てた丘の上に、とんがり帽子のある洋館があったんです」
>
> 終戦の前に菊田一夫の妻と娘は
> 岩手県江刺市の旅館に疎開していました。
> 終戦後、そこに菊田一夫も来て、短いけれど一家が暮らした時期がありました。
>
> 彼らの部屋の窓から川を挟んで向かいに見えたのが
> 当時の岩谷堂町役場(岩谷堂町が合併して江刺市となり、現在はさらに合併して奥州市江刺区)
> これは、明治8年に開院した岩谷堂共立病院、岩谷堂町役場となり現在は明治記念館として観光客に開放されています。
> http://www.uchinome.jp/nature/land/land17_2.html
うーん・・・・私の審美眼から言うと、あまり美しくない洋館ですね(^^;
明治の洋館は、洋館めいた日本建築だったか、逆に日本風の洋館だったか、と書いて
あった本を読んだことがありますが、これは、中国風の日本建築のようで、どっちつかず
のような・・・・和洋中折衷とでも表現したい感じ(^^;
> 川田正子 ゆりかご会 菊田一夫作詞・古関裕爾作曲
> http://www.youtube.com/watch?v=j6DczqtMTMw
歌詞の記憶は、八割がた正解だったかな。古い記憶としては、まずまず合格だった、
ということにしておきますヽ(^o^)丿
[No.448]
戦艦ポチョムキン
投稿者:昴
投稿日:2013/10/01(Tue) 20:42
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戦後直ぐにはなかなか見ることが出来なかった「戦艦ポチョムキン」、ロシア革命8年後の1925年弱冠27歳の
ソ連の監督エイゼンシュタインの作品で、「映画の弁証法」とかいわれたりして一時期たいへん話題になっ
た映画です。(日本公開59年)
彼の「モンタージュ理論・技法」に基づいた鮮烈な画面は極めてショッキングで、今でも記憶に鮮やかです。
赤ん坊を乗せた乳母車が駆け落ちて行くオデッサの階段シーンはとりわけ有名で、映画「アンタッチャブル」
でも引用されているとかいいます。
この映画、1時間8分で見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=NIKYGwQz--I
エイゼンシュテインはその後革命を中心としたイデオロギー映画をたくさん作っていますが、私は歌舞伎の様式を
取り込んだといわれる「イワン雷帝一部・二部」を見たことがあります。16世紀の専制君主イワンを描いたもので、
ラストに近い部分がカラーになっていました。昴
[No.447]
Re: 「青い山脈」
投稿者:マーチャン
投稿日:2013/10/01(Tue) 20:22
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さんらく亭さ 昴さん みなさん
> 素朴な杉葉子、可愛い若山セツ子、お色気の木暮実千代、気品ある原節子。
> 杉葉子のややシャクレタ顔と水着姿の脚の長いのが瞼に浮かびます。
> 「予科練くずれ」という言葉が出てきて、私の兄も予科練帰りなので腹が立った記憶があります
ラブレターの「恋しい恋しい」を「変しい変しい」と書いている
パソコン時代には考えらない「間違い」
小生意気な女の子、笹井さんといいましたでしょうか。
そして、ガンちゃん。立ち上がっていきなり「セネカいわく」と言い出したりして。
とにかく楽しい映画でしたね。
[No.446]
古関裕而
投稿者:男爵
投稿日:2013/10/01(Tue) 18:23
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夏子さん
> 福島に旅をした際、台風の関係で、雨風に祟られて、仕方がないので「古関裕而記念館」
>で半日以上を過ごしました。
それは良いところを見学しましたね。
私も「古関裕而記念館」には数回訪れています。
古関裕而は福島の商業学校を卒業しただけで
正規の音楽教育を受けていないのです。
しかし、音楽が好きで
山田耕筰には何度も手紙を送って、指導を受けていたようです。
1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選したのです。
この入賞の報道を読んだ声楽家志望の愛知県の内山金子(きんこ)が裕而にファンレターを送り、熱烈な文通を経て1930年、裕而20歳、金子18歳でスピード結婚をしました。
正規の音楽を勉強していなかった古関は、妻の理解と支援により
音楽人生を充実させることができました。
古関はたいへんな愛妻家で、戦争中の疎開先でも空襲のときは妻を背負って避難したといいます。
古関裕爾は山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家となります。
[No.445]
Re: 「青い山脈」
投稿者:昴
投稿日:2013/10/01(Tue) 17:54
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さんらく亭さん、みなさん、
「青い山脈」(49)、今井正の戦後4作目ですが、大ヒットしてその年に「続青い山脈」も作っています。
そういえばこの49年には名作がかなりあります、小津安二郎「晩春」黒沢明「野良犬」木下恵介「お嬢さん乾
杯」など。
> あの「青い山脈」の歌声
> ♪若く明るい歌声に 雪崩も消える 花も咲く〜〜〜〜〜♪
この歌は、老人ホームなどの敬老会・食事会でみんなで歌うときの定番で、私たちハーモニカ愛好会10数名
の伴奏に合わせてジジ・ババ元気で歌ってくれます。中には歌詞カードを見ないでも歌える人がいるほどですよ。
「みかんの花咲く丘」「高原列車は行く」なども。脱線しました、ではまた。昴
[No.444]
Re: 鐘の鳴る丘
投稿者:男爵
投稿日:2013/10/01(Tue) 17:40
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夏子さん
> > 緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
> > 鐘が鳴りますキンコンカン メェメェこやぎも鳴いてます
故菊田一夫の長女、入江伊寧子さんは、劇中や主題歌に登場する<緑の丘の赤い屋根>のモチーフは、岩手県江刺市(いまは合併して奥州市江刺区)であると、次のように語っている。
「1945年3月、一家は江刺市の旅館の離れに疎開した。その旅館から小川を隔てた丘の上に、とんがり帽子のある洋館があったんです」
終戦の前に菊田一夫の妻と娘は
岩手県江刺市の旅館に疎開していました。
終戦後、そこに菊田一夫も来て、短いけれど一家が暮らした時期がありました。
彼らの部屋の窓から川を挟んで向かいに見えたのが
当時の岩谷堂町役場(岩谷堂町が合併して江刺市となり、現在はさらに合併して奥州市江刺区)
これは、明治8年に開院した岩谷堂共立病院、岩谷堂町役場となり現在は明治記念館として観光客に開放されています。
http://www.uchinome.jp/nature/land/land17_2.html
川田正子 ゆりかご会 菊田一夫作詞・古関裕爾作曲
http://www.youtube.com/watch?v=j6DczqtMTMw
[No.443]
Re: 望郷(ペペルモコ)
投稿者:YKOMA
投稿日:2013/10/01(Tue) 16:53
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ザックスさん
> トップページのNo.54で出ていますから二度目ですね。
> まあ、いいものは何度でも!
失礼しました。そんな初めの頃は、拝見してなかったので。
今、行ってきましたよ。
[No.442]
Re: 鐘の鳴る丘
投稿者:夏子
投稿日:2013/10/01(Tue) 16:23
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> 緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
> 鐘が鳴りますキンコンカン メェメェこやぎも鳴いてます
> 風はそよそよ 丘の上 (白い)お家がおいらの家よ
>
> どうも最後の行が自信がないのですが、調べると、自分の記憶力が誇れませんので(^^;
「白いお窓がおいらの家よ」だったかも・・・・(^^;
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