「十二人の怒れる男」(1957米)は会社員時代に或る研修会のプログラムの中にあって見せられました。殺人罪を裁く陪審員協議の場面だけの法廷ドラマです。初めは12:0で「有罪」だったのが再検討する過程で疑問がでてきて最後には0:12で「無罪」になるという、徹底的なディスカッションと12人の人間ドラマが圧巻でした。ヘンリー・フォンダとリー・J・コッブの個性のぶつかり合いが凄い。陪審員裁判の恐さも感じました。これは繰り返し繰り返し10回以上は見ています。以下、「サンセット大通り」〜「ひまわり」は、いづれ気が向けばまた。。。。 さんらく亭@甲子園
さんらく亭さん> 「十二人の怒れる男」(1957米)は会社員時代に或る研修会のプログラムの中にあって見せられました。殺人罪を裁く陪審員協議の場面だけの法廷ドラマです。高校生の時に先生から勧められた映画です。でも、見たのはずっと後でした。映画館ではなく、テレビででした。無罪かもしれないし、有罪なのかもしれない。というのが私の感想でした。
さんらく亭さん、みなさん> 「十二人の怒れる男」(1957米)は会社員時代に或る研修会のプログラムの中にあって見せられました。殺人罪を裁く陪審員協議の場面だけの法廷ドラマです。初めは12:0で「有罪」だったのが再検討する過程で疑問がでてきて最後には0:12で「無罪」になるという、徹底的なディスカッションと12人の人間ドラマが圧巻でした。そうでしたねぇ。素晴らしい映画でした(^^)v> ヘンリー・フォンダとリー・J・コッブの個性のぶつかり合いが凄い。陪審員裁判の恐さも感じました。でも、ただ一人の裁判長に任せるのも怖いし、人が人を裁くのは、難しいということですね。無罪の人を有罪にすることも、有罪の人を無罪にすることも怖い。結局は、疑わしきは罰せず、しかないのでしょうか。ヘンリー・フォンダでしたか、被告の無罪を確信していたわけではない、ただ、全員が有罪とすることに疑問を感じたのだ、というようなセリフが印象的でした。
さんらく亭さん、夏子さん みなさんアメリカはヨーロッパの中世社会から直接、文化の伝統がつながっている国なのです。 絶対王政の経験のない人たちが国を作ったという歴史があります。 アメリカではヨーロッパ中世の伝統を(そのまま)受け継いで、 個人が武装することが認められている。ピストルも容易に買える。そういうわけです。 そして、陪審裁判という中世の裁判形式が残っている。というのはドイツ中世の権威の元一橋大学学長の阿部謹也先生の受け売りなのですが...日本の裁判員裁判は、これが中世の名残(陪審裁判)だとは知っていたでしょうか? この阿部謹也先生の指摘はするどい、今まで誰がこんなことを指摘したでしょう。私は今行われている裁判員裁判は、いままでの裁判が国民の常識と離れていることがあったので裁判関係者の反省と、自分たちの力不足を補うためいわばアリバイつくりではないかといささか意地悪な見方をしています。
夏子さん こんばんは> ヘンリー・フォンダでしたか、被告の無罪を確信していたわけではない、ただ、全員が有罪とすることに疑問を感じたのだ、というようなセリフが印象的でした。そうでした。全員が「有罪」という心証だったが兎も角ちょっと考えてみよう と言って投票したのがハジマリでした。あの当時、大学や企業で心理学や人事の教材として使われていました。何か重要な決断をしなければならない場面で、偏見や勝手な思い込みや差別が入り込まないようにすることの大切さ。ビジネスの場面では、リーダー・シップの在り方、理詰めのコミュニケーション、安易に他人の意見に同調する日和見主義などなど、この映画の中からは多くの示唆があって、その点で実に面白かったです。ヘンリー・フォンダ型は日本人には殆ど稀れでしょう。リー・J・コッブ型かジャック・ウォーデン型が多い。政界でもどこでもそうです(;_;)