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[No.291] 田中絹代 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/19(Thu) 06:39
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シンガポールに行ったとき
日本人墓地公園を訪れ
二葉亭四迷とからゆきさんの墓参りをた。

からゆきさんのことが知りたくなって
帰国してから
山崎朋子の「サンダカン八番娼館」を読んだ。

そして、この映画が見たくなった。
ちょうど知人が、この映画のビデオを持っていたので
それを借りて見ることができた。

「サンダカン八番娼館 望郷」 1974年の日本映画。
熊井啓監督。

元からゆきさんを演じた田中絹代は、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。

小説では、作者がサキおばあさんを訪ねていく場面を
古い家で畳は腐っていた、便所もなかったと書いてあるが
映画では腐った畳の上をムカデがいっぱい這う場面があった。

まさに映像ならではの場面だった。


[No.292] Re: 田中絹代 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/19(Thu) 06:53
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> 「サンダカン八番娼館 望郷」 1974年の日本映画。
> 熊井啓監督。
>
> 元からゆきさんを演じた田中絹代は、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。

田中絹代は、日本映画史を代表する大女優の一人。
世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)の全てにおいて出演作が受賞している。
日本で二人目の女性映画監督でもある。

恋多き女性としても有名で、清水宏監督との同棲生活と破局、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。
(巨人軍の水原監督は、稲尾投手の活躍で三原監督に日本シリーズで負けた)

溝口健二監督は、田中に惚れていて結婚を願望していたが、田中の方は溝口に魅力を感じておらず、新藤兼人や田中の証言によると溝口の片思いだったと言われる。

演技で無理な注文をいつも俳優や女優にした溝口監督
田中は溝口監督に敵意すら感じたこともあると新藤兼人が
本に書いていたような気がする。

溝口監督は、新藤兼人にも脚本をボロクソにけなしたのだが
良い脚本を書いたとき評価したという。

そのうち、新藤兼人と乙羽信子についても書きましょう。


[No.328] 乙羽信子 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/21(Sat) 07:01
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> 田中絹代は、日本映画史を代表する大女優の一人。

私は田中絹代と乙羽信子の区別がなかなかできないのです。
(明らかに違うだろう、という声が聞こえてきそうですが)

そこで、乙羽信子をとりあげてみたいです。
 乙羽信子はおしんにでましたね。

> 溝口健二監督は、田中に惚れていて結婚を願望していたが、田中の方は溝口に魅力を感じておらず、新藤兼人や田中の証言によると溝口の片思いだったと言われる。

> 演技で無理な注文をいつも俳優や女優にした溝口監督
> 田中は溝口監督に敵意すら感じたこともあると新藤兼人が
> 本に書いていたような気がする。

> 溝口監督は、新藤兼人にも脚本をボロクソにけなしたのだが
> 良い脚本を書いたとき評価したという。

> そのうち、新藤兼人と乙羽信子についても書きましょう。

何冊か図書館から本を借りてきました。
それを見ながらの書き込みです。

溝口健二監督の言動は印象的。
「心理を反射させてください」の一言で撮影が始まった。
(リアルに心と心をぶつけて演技をしてくださいという意味だろうと新藤兼人は解説しているが、いま考えても変な日本語だ)

「心理を反射させてください」というだけで具体的な演技指導はやらない。
役者がたまりかねて「どうやったらいいか教えてください」というと
溝口監督は「わたしは監督で役者ではないから、役者のマネはできません。あなたがたはカネをもらっているでしょう。カネだけの仕事をしなさい」と鋭く言い放った。

これをそばて聞いていた新藤兼人は、なんという傲慢な奴だと思ったという。
役者が教えてくれといっているんだから、監督の務めとして
こうやりなさいとか、こう台詞をいいなさいとか、いうべきではないかと書いている。

溝口健二監督は話題の多い監督だった。

新藤兼人が一生懸命書いた脚本を
溝口監督は「これは脚本ではありません。ストーリーです」とつきはなす。

がっかりした新藤は古書店に行って「近代劇全集」を見つけ
(お金がないから買えず)安いお金で借りてくる。

それを毎日読んでいるうちに、どんなドラマも
発端、葛藤、終末という三段階から成り立っていることを発見する。
(起承転結ということか)

郊外の練兵場で三日間泊まり込み訓練する教育召集が新藤兼人にもきた。
彼は急いで脚本を書いて、それを情報局募集の国民映画に投稿した。

これが幸運にも当選した。
溝口健二監督は、新藤兼人を祇園の乙部に連れて行って
お祝いをしてくれた。

彼は、溝口監督からほめてもらったことを妻に言うと
妻は泣いて喜んだ。

かれを陰で支えてくれた妻は岩手県の盛岡近くの雫石出身だった。
映画のスクリプターの仕事をしていたが、彼について京都まできてくれた。

しかし、この妻は戦時中で食べ物も少なく、無名の夫と貧しい暮らしをしている中で
とうとう結核で血を吐いて亡くなってしまう。
悲しみをこらえて戦後に、新藤兼人は「愛妻物語」の脚本を書く。

そして自分が監督になって映画を作った。
愛妻物語 1951年公開
http://movie.walkerplus.com/mv27175/
新藤兼人の妻だった久慈孝子を乙羽信子が演じた。


[No.367] Re: 乙羽信子 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/24(Tue) 13:12
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> そこで、乙羽信子をとりあげてみたいです。
>  乙羽信子はおしんにでましたね。

> > そのうち、新藤兼人と乙羽信子についても書きましょう。

> 新藤兼人が一生懸命書いた脚本を
> 溝口監督は「これは脚本ではありません。ストーリーです」とつきはなす。

がっかりした新藤は、しかし妻のはげましを受け努力する。
けなされても、彼は脚本を書くしかないのだ。

> 郊外の練兵場で三日間泊まり込み訓練する教育召集が新藤兼人にもきた。
> 彼は急いで脚本を書いて、それを情報局募集の国民映画に投稿した。

> これが幸運にも当選した。
> 溝口健二監督は、新藤兼人を祇園の乙部に連れて行って
> お祝いをしてくれた。

> 彼は、溝口監督からほめてもらったことを妻に言うと
> 妻は泣いて喜んだ。

> しかし、この妻は戦時中で食べ物も少なく、無名の夫と貧しい暮らしをしている中で
> とうとう結核で血を吐いて亡くなってしまう。
> 悲しみをこらえて戦後に、新藤兼人は「愛妻物語」の脚本を書く。

> そして自分が監督になって映画を作った。
> 愛妻物語 1951年公開
> 新藤兼人の妻だった久慈孝子を乙羽信子が演じた。

乙羽信子は私生児だった。
彼女は実母も実父も知らなかった。
有名になったとき、遺産相続の書類のため、義理の妹が訪ねてきた。
そこではじめて実母のことを知る。実母は義妹(養女)にも教えなかったらしい。
義妹は、自分の義理の姉が宝塚出身の百万ドルのエクボの女優と知って驚く。
(実母は知っていたが、誰にも言わなかった)

新藤兼人監督により
「愛妻物語」につぎは「原爆の子」に出る。
「原爆の子」は英国アカデミー賞が贈られた。


「どぶ」で見せた汚れ役に、みんなはあきれる。
宝塚出身の美人がどうして。
http://www.intercritique.com/movie.cgi?mid=14789

新藤兼人との作品を重ねるごとに
汚くなっていく。(養父母は怒る)

しかし、演技は深まり、批評家たちの高い評価を受ける。

彼女はこうして新藤兼人から離れられなくなっていく。


[No.377] Re: 乙羽信子 投稿者:  投稿日:2013/09/25(Wed) 11:05
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> > そして自分が監督になって映画を作った。
> > 愛妻物語 1951年公開
> > 新藤兼人の妻だった久慈孝子を乙羽信子が演じた。

去年100歳で没した新藤監督の第1回監督作品の「愛妻物語」は公開時に見ています。
当時仲間たちとこれは「愛夫物語」だネと話したものです。確か溝口監督役が滝沢修でした。
次の「原爆の子」はだいぶ後になってテレビで見た記憶です。彼の最後の作品「一枚のはがき」
もよかったですね。 昴


[No.378] Re: 乙羽信子 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/25(Wed) 16:25
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昴さん

> 去年100歳で没した新藤監督の第1回監督作品の「愛妻物語」は公開時に見ています。
> 当時仲間たちとこれは「愛夫物語」だネと話したものです。確か溝口監督役が滝沢修でした。

確かに、尽くして尽くしてくれた妻のことなので「愛夫物語」なのでしょう。
夫としては、これから愛妻(行為)を実行したかったという悔いがあったのでしょう。

溝口監督役は滝沢修です。  そう本に書いています。

大映の乙羽信子は看板スターだったので、看板スターが血を吐いて死ぬ役はさせないというのを
乙羽信子は永田雅一社長と喧嘩してまで、新藤兼人の映画にでた。
そのくらい彼女は性格が一途なところがあった。

> 次の「原爆の子」はだいぶ後になってテレビで見た記憶です。彼の最後の作品「一枚のはがき」
> もよかったですね。 

広島出身の新藤兼人としては
ぜひとも撮りたかった映画でした。
回りからアメリカに気をつかったらという忠告も聞かずにつくった映画は
興行的にも成功して、私が思うに、それは原爆ドーム保存、ついには世界遺産という形になっていったのだと思います。
(原爆ドームの世界遺産のきっかけというか第一歩をつくったくらいの価値がある)

しかし、小学生の時に見た私の印象は、ただ暗い映画だったのです。

それからつくった
「第五福竜丸」は失敗、独立プロは厳しい。
借金も増えて、やけっぱち最後の作品と思って作った「裸の島」
これがモスクワ国際映画祭でグランプリを受賞する。世界各国から買われて借金も返せた。
自信をつけた。

瀬戸内海に住む夫婦(殿山泰司・乙羽信子)と子ども二人。
島には井戸はないから、彼らは毎日、船を漕いで隣の大きな島へ水を汲みに行く。
桶に汲んだその水を、天びん棒で担いでは、島のてっべんまで耕されている段々畑を上り下りし、その水を作物にかけてやるのが毎日の主な労働である。

かわいた砂地はたちまち水を吸い込む。
新藤兼人は、乾いた土へ水をかけるのは、乾いた心へ水をかけるのだと思った。
人の心はみな乾いている。生きるために乾いている、それに一杯の水をかけたいのだ。
そう新藤兼人は思って映画をつくった。

「この映画は何も語らない。しかし、すべてを語っている」フランスの映画評論家の讃辞だった。

乙羽信子は後に書いている。
 このとき、私は三十六歳だった。彼の愛を注がれて九年たっていた。
 「裸の島」ではないが、この九年間二人の交わした言葉は、どれほどあっただろう。
 映画評をまねて「何も語らないが、すべてを語っている」などとはいわないが
 愛の展望も語られず、乾いた心にくり返し水を注いで時を過ごしていた。
 「新藤の愛人」でいるべきか、「他の人と結婚すべきか」迷っていたころでもある。


[No.689] 裸の島 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/26(Sat) 14:32
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> それからつくった
> 「第五福竜丸」は失敗、独立プロは厳しい。
> 借金も増えて、やけっぱち最後の作品と思って作った「裸の島」
> これがモスクワ国際映画祭でグランプリを受賞する。世界各国から買われて借金も返せた。
> 自信をつけた。

裸の島

この映画は新藤兼人監督が、自己資金で、ふつうの映画の製作費の10分の1ぐらいの予算で製作したものである。
出演者もスタッフも最小限度の10名余りに切りつめ、瀬戸内の宿弥島でのオールロケというこの意欲を、日本の配給会社は黙殺。
映画会社の系統館で上映してもらうことを考慮にいれず、結局自主上映の形で公開されつくりあげた。したがって、日本では名画座や貸ホールなどを転々として上映されただけだった。

ところが、翌年モスクワ映画祭でグランプリを受賞するや、たちまち世界じゅうで名声を得て独立プロ運動の起死回生の一作となったのだった
http://nihon.eigajiten.com/hadakanosima.htm
起死回生の逆転ホームラン

> 瀬戸内海に住む夫婦(殿山泰司・乙羽信子)と子ども二人。
> 島には井戸はないから、彼らは毎日、船を漕いで隣の大きな島へ水を汲みに行く。
> 桶に汲んだその水を、天びん棒で担いでは、島のてっべんまで耕されている段々畑を上り下りし、その水を作物にかけてやるのが毎日の主な労働である。
>
> かわいた砂地はたちまち水を吸い込む。
> 新藤兼人は、乾いた土へ水をかけるのは、乾いた心へ水をかけるのだと思った。
> 人の心はみな乾いている。生きるために乾いている、それに一杯の水をかけたいのだ。
> そう新藤兼人は思って映画をつくった。
>
> 「この映画は何も語らない。しかし、すべてを語っている」フランスの映画評論家の讃辞だった。

> 乙羽信子は後に書いている。
>  このとき、私は三十六歳だった。彼の愛を注がれて九年たっていた。
>  「裸の島」ではないが、この九年間二人の交わした言葉は、どれほどあっただろう。
>  映画評をまねて「何も語らないが、すべてを語っている」などとはいわないが
>  愛の展望も語られず、乾いた心にくり返し水を注いで時を過ごしていた。
>  「新藤の愛人」でいるべきか、「他の人と結婚すべきか」迷っていたころでもある。


[No.379] 昭和枯れすすき/新藤兼人脚本 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/25(Wed) 16:44
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> > 溝口監督は、新藤兼人にも脚本をボロクソにけなしたのだが
> > 良い脚本を書いたとき評価したという。

> 新藤兼人が一生懸命書いた脚本を
> 溝口監督は「これは脚本ではありません。ストーリーです」とつきはなす。

> 悲しみをこらえて戦後に、新藤兼人は「愛妻物語」の脚本を書く。

新藤兼人は監督として映画もつくったが
たくさんの脚本を書いています。
彼の本にあった脚本のリストを見ると
下記のものもありました。

昭和枯れすすき  1975年公開

原作は結城昌治の「ヤクザな妹」。
脚本は「わが道」の新藤兼人、監督は「砂の器」の野村芳太郎、撮影も同作の川又昂がそれそれ担当。

キャスト
 原田 高橋英樹
 典子 秋吉久美子


[No.351] Re: 田中絹代 投稿者:さんらく亭  投稿日:2013/09/22(Sun) 08:37
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> 田中絹代は、日本映画史を代表する大女優の一人。
> 世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)の全てにおいて出演作が受賞している。

田中絹代が大和撫子を代表する美人で名優であることはじゅうぶん承知しながら私には妙な偏見が消えず、彼女の作品はほとんど見ていません。見ておけばよかったと後悔しても遅いですが。

彼女が戦後まだ占領下にアメリカへ親善使節として行っての帰りに羽田で派手なサングラスに真っ赤な口紅、アイシャドウに毛皮のコートという姿で出迎え陣に「ハロー」と手を振った姿が新聞に載って大騒ぎ。出発時には日本女性らしく楚々とした和服姿だったのが帰国時にこの姿ですからね。「アメション女優」「パンスケ」などと聞くに堪えない罵言を浴びたのをニュース映画でも見ました。物凄いバッシングでした。

純朴な(?)高校生には強烈なショックでそれ以来、彼女の映画は見る気がなくなりました。彼女が大きいショックを受けて自殺も思ったときに仕事の面で救ったのが溝口健二監督だと、これは後で知ったことです。


[No.354] Re: 田中絹代 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/22(Sun) 08:58
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さんらく亭さん

> 田中絹代が大和撫子を代表する美人で名優であることはじゅうぶん承知しながら私には妙な偏見が消えず、彼女の作品はほとんど見ていません。見ておけばよかったと後悔しても遅いですが。
>
> 彼女が戦後まだ占領下にアメリカへ親善使節として行っての帰りに羽田で派手なサングラスに真っ赤な口紅、アイシャドウに毛皮のコートという姿で出迎え陣に「ハロー」と手を振った姿が新聞に載って大騒ぎ。出発時には日本女性らしく楚々とした和服姿だったのが帰国時にこの姿ですからね

誤解されたんでしょうね。

>「サンダカン八番娼館 望郷」 1974年の日本映画。
熊井啓監督。

>元からゆきさんを演じた田中絹代は、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。

この映画は
田中絹代によってひきしまったと思います。

世界の人が、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞で
彼女の女優としての一生を評価したのだと私は考えます。

彼女は女優だけでなく、映画監督にもなったのは
思うところがあったのでしょう。


[No.691] Re: 田中絹代 投稿者:  投稿日:2013/10/26(Sat) 20:43
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Re: 田中絹代
画像サイズ: 640×480 (50kB)
男爵さん、チョット脇道に。
1977年3月に亡くなった田中絹代の墓は、出生地下関中央公園にありますが、又従弟の小林正樹監督
(人間の条件・切腹・上意討ち 拝領妻始末)によって鎌倉円覚寺に分骨されました。この寺は田中絹代を
はじめ佐田啓二・小林正樹・木下惠介・小津安二郎など有名映画人の墓所が多いのでも知られています。
因みに田中絹代の戒名は”迦陵院釈尼絹芳大姉”迦陵頻伽(かりょうびんが)とは極楽にいる妙なる鳴き声
の鳥といわれています。 昴


[No.357] Re: 田中絹代 投稿者:まや  投稿日:2013/09/22(Sun) 16:33
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さんらく亭さん & みなさん、今日は!

> 田中絹代が大和撫子を代表する美人で名優であることはじゅうぶん承知しながら私には妙な偏見が消えず、彼女の作品はほとんど見ていません。見ておけばよかったと後悔しても遅いですが。
>
> 彼女が戦後まだ占領下にアメリカへ親善使節として行っての帰りに羽田で派手なサングラスに真っ赤な口紅、アイシャドウに毛皮のコートという姿で出迎え陣に「ハロー」と手を振った姿が新聞に載って大騒ぎ。出発時には日本女性らしく楚々とした和服姿だったのが帰国時にこの姿ですからね。「アメション女優」「パンスケ」などと聞くに堪えない罵言を浴びたのをニュース映画でも見ました。物凄いバッシングでした。
>

 そうでした。
 わたしもご同様、彼女の映画はほとんど見ていません。

 彼女が日米親善芸術使節として渡米したのは1950年、日本がまだ戦後の混乱か
ら抜け出ていない貧しい時代でした。日本人にとってアメリカは夢の国だったの
です。その夢の国にほんの短いあいだ滞在しただけの彼女が、帰国したときに眼
を疑うような変身ぶりを見せたのですから、すんなり受け入れられなかったので
しょう。羨望の眼が彼女に対する憎悪になったのかもしれませんね。

 サングラスと派手な服装で「ハロー」と言ったり、投げキッスをしたりしたた
めメディアから叩かれたり、「アメション」(アメリカ滞在は小便をするくらい
の短期間でしかないという意味) という流行語を生んだりしましたね。

 最近では考えられないようなことですが、気の毒でした。

まや