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[No.615] 東京物語 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/18(Fri) 16:43
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周吉(笠智衆)、とみ(東山千栄子)の老夫婦は住みなれた尾道から二十年振りに東京にやって来た。

東京では長男幸一の一家も長女志げの夫婦も歓待してくれて、熱海へ迄やって貰いながら、何か親身な温かさが欠けている事がやっぱりものたりなかった。

医学博士の肩書まである幸一も志げの美容院も、思っていた程楽でなく、それぞれの生活を守ることで精一杯にならざるを得なかったから。

周吉は同郷の老友との再会に僅かに慰められ、とみは戦死した次男昌二の未亡人紀子(原節子)の昔変らざる心遣いが何よりも嬉しかった。

紀子は、周吉・とみ夫婦を銀座の松屋デパートに案内した。
進駐軍に接収されていた松屋は昭和27年に解除され
翌28年に新装となった。映画では新装となったぱかりの松屋の展望台に
紀子が義父母を案内し、遠くに国会議事堂が見える。
(いまは高層ビルが建ち並び国会議事堂は見えない)

http://movie.walkerplus.com/mv23661/

   川本三郎:銀幕の東京 中公新書1477


[No.616] 下町の太陽 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/18(Fri) 17:09
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下町の太陽

山田洋次監督の2作目の作品。 1963年  松竹
主演の倍賞千恵子が題名と同タイトルの主題歌を歌い、大ヒットとなった。
東京都墨田区の京成線の京成曳舟駅および東武線の曳舟駅付近にあった資生堂の石鹸工場とその周辺が舞台となっている。

ヒロイン寺島町子は、二十歳を少し過ぎたぐらい。
ある化粧品会社の東京下町にある石鹸工場で女工をしている。

町子は、同じ工場の事務職員の毛利道男とつきあっている。
毛利はこの会社の正社員になって、都心の本社に勤務することを目指して、社員試験の勉強に励んでいる。
そして、正社員になったときは、町子と結婚し、下町を抜け出して郊外の公団の団地に住みたいと考えている。(郊外の公団住宅に住むことは、若い人たちの夢だった)

町子は、自分の家から工場まで電車通勤をしているが、車内でいつも町子のことをジロジロ見ている数人の若者たちがいた。
町子の工場と同じ町にある鉄工所の工員たちである。
その一人北良介から強引に「つきあってくれ」と頼まれるが、町子は断る。

町子の家は、長屋や木造住宅の密集した街にある。近所の人はみんな貧しいが、人の好い人ばかりである。家族は、父、祖母、弟二人と町子の五人家族で母はいない。あるとき、下の弟で中学生の健二が鉄道模型の万引き事件を起こす。母代りの町子は思い悩み、恋人の毛利に健二と話をしてみてくれないかと頼むが、社員試験が近く勉強をしなければならないので、と断られる。町子は、健二が北良介とよく遊ぶことがあると聞き、勤め先の鉄工所で北と話をする。北は「あいつは悪い子ではなくいい奴だ」という。

映画では
町子は荒川土手に面した京成電車の荒川駅(平成6年に駅名が八広駅に変わる)
から電車に乗り、。次の京成曳舟駅で降り、資生堂の向島工場に通っている。

工場から家に帰る町子が荒川駅を降りると、良介はあとをつけて
町子が荒川土手から町の方へ降りる階段を歩いていると
良介は階段の上から町子に声をかけ、友だちになってくれと頼む。
(あとをつけたり強引に交際を申し込むのは一種のストーカーみたいだが、熱心だし一貫して彼女や彼女の弟のことを考えている良介は、彼女から信頼されるようになりやがて彼女と結婚できることになる)
(ストーカーは相手の女性の幸せよりも自分のワガママを優先的に考える困りもの)

町子:倍賞千恵子
北良介:勝呂誉
毛利道男:早川保

毛利道男の父:加藤嘉

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%94%BA%E3%81%AE%E5%A4%AA%E9%99%BD

 倍賞千恵子/下町の太陽
http://www.youtube.com/watch?v=NFe0iyLO0vQ

   川本三郎:銀幕の東京 中公新書1477


[No.621] 煙突の見える場所 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/19(Sat) 06:50
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「煙突の見える場所」  1953年公開

「文学界」に掲載された椎名麟三の「無邪気な人々」を「二人の瞳」の小国英雄が脚色し、「朝の波紋」の五所平之助が監督した。「
http://movie.walkerplus.com/mv23470/

東京の下町に住む人々にとって
千住のお化け煙突は、長い間
見慣れ、親しんだランドマークだった。

場所によって
四本、三本、二本、一本に見える
お化け煙突。

   川本三郎:銀幕の東京 中公新書1477


[No.630] 銀座の恋の物語 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/21(Mon) 05:41
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銀座の恋の物語  公開 1962年

伴次郎はジャズ喫茶のピアノひきの宮本と一つ部屋を仕切って同居する絵かきで、「銀座屋」の針子秋山久子を愛していた。そして二人は一緒に考えた“銀座の恋の物語”を大事に胸に秘めていた。

 石原裕次郎 伴次郎
 ジェリー藤尾 宮本修二
 浅丘ルリ子 秋山久子
 江利チエミ 関口典子

 牧村旬子(みつこ) 柳井樹理

http://eiga.com/movie/36033/

裕次郎が室内装飾の仕事で銀座の松屋デパートにでかけ
屋上の松屋名物の展望塔の上に立って町を見下ろす。

ここは小津安二郎監督「東京物語」(昭和28年)で
原節子が笠智衆と東山千栄子を案内したところである。

同じ場所に裕次郎が立つ。
銀座の町は9年の間にずいぶんビルが建てこんできているが
それでもまだ四丁目の交差点のところには都電が走っている。
(都電はオリンピックの後、昭和42年12月に消えた)

裕次郎はこの松屋デパートで、室内アナウンス係をしていた浅丘ルリ子と再会し
その記憶を取り戻す。

 銀座の恋の物語 石原裕次郎 / 牧村旬子
http://www.youtube.com/watch?v=br_hIY0Jo-4
 この映画の主題歌

>紀子は、周吉・とみ夫婦を銀座の松屋デパートに案内した。
>進駐軍に接収されていた松屋は昭和27年に解除され
>翌28年に新装となった。
>映画では新装となったぱかりの松屋の展望台に
>紀子が義父母を案内し、遠くに国会議事堂が見える。
>(いまは高層ビルが建ち並び国会議事堂は見えない)

   川本三郎:銀幕の東京 中公新書1477


[No.643] Re: 煙突の見える場所 投稿者:  投稿日:2013/10/22(Tue) 21:12
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Re: 煙突の見える場所
画像サイズ: 341×480 (46kB)
男爵さん、

> 「煙突の見える場所」  1953年公開

この映画は当時映画館で見た記憶です。お化け煙突は東京電力千住火力発電所の煙突で1.2.3.4本をそれぞれ見た覚えがあります。
先日必要があって「1960年代の東京」(毎日新聞社)を図書館から借りて何点かコピーした中にこの煙突の写真がありましたので添付します。画質がよくないので見にくいですがご勘弁願います。ではまた。 昴


[No.644] 有楽町 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/23(Wed) 05:29
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いまはもうその面影はなくなってしまったが
昭和40年代までは、有楽町といえば新聞社の町だった。

朝日、毎日、読売の三大新聞社をはじめ各地方紙の東京支社があり
町にはジャーナリストの活気があふれていた。

外堀川というのは、現在の高速道路(その下に西銀座デパートやコリドー街がある)
の下を流れていた川(掘割)で、銀座と有楽町をへだてていた。
菊田一夫の「君の名は」で一躍有名になる数寄屋橋はこの川に架かっていた橋である。

戦前の掘割川をみごとにとらえている映画がある。
昭和11年に作られたミュージカル映画「東京ラプソディ」。
これはヒットした藤山一郎の「東京ラプソディ」を基につくられた。
冒頭に外堀川が映し出される。「東京ラプソディ」の明るい歌が流れる中
数寄屋橋、朝日新聞社、その隣の映画館の邦楽座(のちの丸の内ピカデリー)、泰明小学校が次々に映る。

「君の名は」の映画にも、外堀川、数寄屋橋、朝日新聞社がとらえられている。
川べりには、水中に杭を立てて、その上に建物を張り出した「竹の家」が見える。
当時、銀座周辺の掘割にはこれがよく見られた。

   川本三郎:銀幕の東京 中公新書1477


[No.654] Re: 有楽町 投稿者:さんらく亭  投稿日:2013/10/23(Wed) 17:44
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> いまはもうその面影はなくなってしまったが
> 昭和40年代までは、有楽町といえば新聞社の町だった。

有楽町といえば娯楽の街でありフランク永井の唄う「西銀座駅前」でした。
<♪ メトロを降りて階段昇りゃ 霧にうず巻くまぶしいネオン
   いかすじゃないか 西銀座駅前  ♪>

この歌のように当時は丸の内線の西銀座駅を地上に上ったところが数寄屋橋で日劇や日劇ミュージックホールがあってよく通いました。確か東京オリンピックの大工事のときに銀座駅が大きくなって西銀座駅を吸収合併したので有楽町へ行くには長い長い連絡通路を歩かなければならず不便になりました。

そういえば、フランク永井は同い年ですが不幸な晩年でした。
私のカラオケの十八番には彼の歌が4曲あります。
<西銀座駅前/有楽町で逢いましょう/こいさんのラブコール/東京ナイトクラブ>


[No.656] Re: 有楽町 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/23(Wed) 18:57
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さんらく亭さん

> 有楽町といえば娯楽の街でありフランク永井の唄う「西銀座駅前」でした。
> <♪ メトロを降りて階段昇りゃ 霧にうず巻くまぶしいネオン
>    いかすじゃないか 西銀座駅前  ♪>
>
> この歌のように当時は丸の内線の西銀座駅を地上に上ったところが数寄屋橋で日劇や日劇ミュージックホールがあってよく通いました。確か東京オリンピックの大工事のときに銀座駅が大きくなって西銀座駅を吸収合併したので有楽町へ行くには長い長い連絡通路を歩かなければならず不便になりました。

さんらく亭さんの書かれた「西銀座駅」は
いまなら
丸ノ内線の「東京駅」と「霞ヶ関駅」の間の「銀座駅」でしょう。
日比谷線と交差する駅。

銀座線の「銀座駅」は三越のそばですね。


[No.680] Re: 有楽町 投稿者:  投稿日:2013/10/25(Fri) 20:05
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男爵さん、みなさん、「有楽町」、映画と離れてしまい申し訳ありませんが、この町名の所縁について。
ご存じの方も多いかもしれませんが「江戸名所図会」(天保5-7年刊)の「織田有楽齋第(てい)宅の地」の項に
「元数寄屋町の地なりと云ふ。慶長の頃この地を織田有楽齋(うらくさい)に賜はりしが……」とあり、注釈に
「いま中央区銀座西五丁目・同銀座五丁目に属す。国電有楽町の駅名も有楽原から生まれた地名に
よる。」と書かれています。ではまた。昴


[No.683] Re: 有楽町 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/26(Sat) 05:51
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昴さん

> 男爵さん、みなさん、「有楽町」、映画と離れてしまい申し訳ありませんが、この町名の所縁について。
> ご存じの方も多いかもしれませんが「江戸名所図会」(天保5-7年刊)の「織田有楽齋第(てい)宅の地」の項に
> 「元数寄屋町の地なりと云ふ。慶長の頃この地を織田有楽齋(うらくさい)に賜はりしが……」とあり、注釈に
> 「いま中央区銀座西五丁目・同銀座五丁目に属す。国電有楽町の駅名も有楽原から生まれた地名に
> よる。」と書かれています。

有楽町は有楽斎からきたとは
聞いたことがあります。

ネットで調べると
 織田有楽斎(おだ うらくさい、1547年-1621年)とは、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した武将、茶人である。
 本名は長益(ながます)。洗礼名はジョアン。1590年に剃髪し有楽斎と号した。織田信秀の十一男。織田信長、織田信勝らの弟に当たる。
 千利休から茶道を学んだ利休七哲(利休の高弟)の一人であり、茶道有楽流の創始者であるため、茶人として著名である。戦国武将としても、政治、軍事、両面で功績を残している。
 本能寺の変と大坂の陣では、敗北した側に付いていたが、卓越した処世術で窮地を切り抜け、家名を残すことに成功した。

時代の中でうまく生き延び
家康の開拓した江戸で晩年をすごしたとしても、短い期間だったのではないでしょうか。
  京都に住んでいた方が長いみたい。