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[No.51] 卒業旅行なし 投稿者:   投稿日:2013/11/07(Thu) 17:16
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小学校 戦時中、しかも敗戦まえで それどころじゃなし。

中学(旧制)学制改革で新制高校卒、それとまだ戦後の混乱期
中学卒 昭和23年、新制高校 昭和26年 その間中学の卒業は
正確には新制高校併置中学そつです。

新制高校の卒業旅行は、先生方の意見が分かれまだ今年は見送ろう
で、27年からとなったようです。
大学は卒業旅行はありませんので、小・中・高と 全く卒業旅行なし
でした。 残念、無念。(--)ム!


[No.52] Re: 卒業旅行なし 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/07(Thu) 17:23
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オアシスさん

> 小学校 戦時中、しかも敗戦まえで それどころじゃなし。

> 新制高校の卒業旅行は、先生方の意見が分かれまだ今年は見送ろう
> で、27年からとなったようです。
> 大学は卒業旅行はありませんので、小・中・高と 全く卒業旅行なし
> でした。 残念、無念。(--)ム!

そういう人もいたんですね。
一種の戦争犠牲者。

ところで
学童疎開は経験されませんでしたか?


[No.59] Re: 卒業旅行なし 投稿者:オアシス  投稿日:2013/11/08(Fri) 10:26
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男爵さん、みなさん こんにちは。
>
>そういう人もいたんですね。
> 一種の戦争犠牲者。

仰る通りでしょう。

> ところで
> 学童疎開は経験されませんでしたか?

縁故疎開で、本家のある金沢へ、落ち着いた所は松任町です。
始めはお寺のはなれ、ついで一軒家で 旧制金沢一中に たしか
鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。

               オアシス


[No.60] Re: 卒業旅行なし 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/08(Fri) 12:54
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オアシスさん

> > ところで
> > 学童疎開は経験されませんでしたか?

> 縁故疎開で、本家のある金沢へ、落ち着いた所は松任町です。
> 始めはお寺のはなれ、ついで一軒家で 旧制金沢一中に たしか
> 鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。
               
ネットで調べると
 石川県道179号野々市鶴来線

 石川県道179号野々市鶴来線(いしかわけんどう179ごう ののいちつるぎせん)は
 石川県野々市(ののいち)市と同県白山市を結ぶ一般県道です。
 通称「鶴来街道」とも呼ばれる。

疎開での生活はたいてい不愉快な思い出があるようですが
そういうことがないのでしたら幸いでした。


[No.64] Re: 卒業旅行なし 投稿者:オアシス  投稿日:2013/11/08(Fri) 21:49
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男爵さん

電車は廃線になっちゃったんですね。
昭和20年、21年 そりゃ生活は苦しかったですよ。
食料は都会の生活で使っていた衣料などと、芋・かぼちゃなどの
物々交換でした。
田舎の生活は戦前は都会比貧しかったですから、冷たかったです。

田舎のお百姓さん、お金は札を積み上げ 尺祝いでした。
金では売らぬ、物をと もう代わりの持ってきたものはないから
何とかそこを、、、
と 返事はそんなにほしいなら採っていけばいいじゃないかと、で
盗って持ち帰ったこともあります。

何せ都市部で1千万人餓死せつまであった時代ですから、、、

                   オアシス

> > 縁故疎開で、本家のある金沢へ、落ち着いた所は松任町です。
> > 始めはお寺のはなれ、ついで一軒家で 旧制金沢一中に たしか
> > 鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。
>                
> ネットで調べると
>  石川県道179号野々市鶴来線
>
>  石川県道179号野々市鶴来線(いしかわけんどう179ごう ののいちつるぎせん)は
>  石川県野々市(ののいち)市と同県白山市を結ぶ一般県道です。
>  通称「鶴来街道」とも呼ばれる。
>
> 疎開での生活はたいてい不愉快な思い出があるようですが
> そういうことがないのでしたら幸いでした。


[No.65] Re: 卒業旅行なし 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/09(Sat) 05:44
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オアシスさん

> 電車は廃線になっちゃったんですね。

どうもそうみたいです。

> 昭和20年、21年 そりゃ生活は苦しかったですよ。
> 食料は都会の生活で使っていた衣料などと、芋・かぼちゃなどの
> 物々交換でした。
> 田舎の生活は戦前は都会比貧しかったですから、冷たかったです。

あの頃は食べるものがなくて
よくみんな生き延びたと思います。
 とても遠足や運動会どころではなかったでしょう。

> 田舎のお百姓さん、お金は札を積み上げ 尺祝いでした。
> 金では売らぬ、物をと もう代わりの持ってきたものはないから

それまで小作していた人は農地解放で自分の土地ができたうえ
都会の人が押し寄せ
食べ物と交換した着物や品物を手に入れて天国だったようです。
 あのころが最高だった(いまは減反で地獄だ)と感想をもらす農家もいます。

私も両親が町から農村地域に引っ越しして
毎日、ジャガイモやカボチャなと食べたものです。 ムギや蕎麦も。

父はあの農村のおかげで生きられたと言いますが
母は農村の人びとの尊大な態度を批判していました。
ある都会から来た婦人は苦労して交渉しても食べ物がもらえず
悲観して自殺したそうです。

私たち親子が終戦後なんとか食糧にありついた
この農村地帯に走っていた鉄道もいまは廃線となりました。
 雪が3メートルも降るとSLも止まる。


思い起こせば
1993年は東北北海道は寒い気候のため米が大変不作の年でした。

スーパーでも米屋でも米が買えず
これは大変と、米に頼らない食事に切り替えました。

いまでもパン、蕎麦、ジャガイモ、穀類などの食事で生きていける自信があります。
日本から米がなくても生きていける。

あのときは米商人の考えか政府の政策か
とにかく私はあれから米とは距離をおくようになったのでした。


[No.68] 学芸会? 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/09(Sat) 07:18
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オアシスさん、 みなさん

> > 昭和20年、21年 そりゃ生活は苦しかったですよ。
> > 食料は都会の生活で使っていた衣料などと、芋・かぼちゃなどの
> > 物々交換でした。

> あの頃は食べるものがなくて
> よくみんな生き延びたと思います。
>  とても遠足や運動会どころではなかったでしょう。

しかし
学芸会はあったように思います。

小さかった私は学芸会の記憶はないのですが
小学校の講堂で旅芸人の舞台を見たことがあります。
 かげで衣装を整えメイキャップしていた芸人 その姿を覚えています。
(彼らも食べ物を求めて地方を回っていたのでしょう)

そのとき舞台で歌われていた歌もしっかり覚えています。

三原純子  南から南から
http://www.youtube.com/watch?v=RZ9z0SzYCdM

戦争も終わりみんなやれやれ
だからこういう歌ができたのかと思っていたら
この歌は戦争中につくられた歌でした。

三原純子は楠木繁夫と恋仲になり、1943年(昭和18年)結婚。
人気歌手とうしの夫婦だったが、空襲で東京の家を焼失したため、夫妻は三原の故郷である飛騨高山に疎開。
終戦後に、夫はヒロポン中毒になり、いっぽう彼女は結核となり故郷で療養生活をおくるうちに
東京で一人暮らしていた楠木繁夫は自殺。


[No.70] Re: 学芸会? 投稿者:オアシス  投稿日:2013/11/09(Sat) 10:29
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男爵さん、 みなさん
幼稚園、小学低学年では 多分学芸会乃至はそれに準ずる会
があったと思います。
私 小心で、内気、いじけた少年でしたので、参加した思い出
、覚えはないです。
なんせ 貴殿とはちょうど一回り、12年違いの人生ですから
世の中の暮らし、生活、社会の全てが違っていました。
私の良い思い出は幼稚園までの両親との生活、特に可愛がって
くれたとしごの姉(去年春逝去)と、優しく接してくれた近所
のおばさんなど身近な人達の優しさ・労りです。

             オアシス
>

>
> > あの頃は食べるものがなくて
> > よくみんな生き延びたと思います。
> >  とても遠足や運動会どころではなかったでしょう。
>
> しかし
> 学芸会はあったように思います。
>
> 小さかった私は学芸会の記憶はないのですが
> 小学校の講堂で旅芸人の舞台を見たことがあります。
>  かげで衣装を整えメイキャップしていた芸人 その姿を覚えています。
> (彼らも食べ物を求めて地方を回っていたのでしょう)
>
> そのとき舞台で歌われていた歌もしっかり覚えています。
>
> 三原純子  南から南から
> http://www.youtube.com/watch?v=RZ9z0SzYCdM
>
> 戦争も終わりみんなやれやれ
> だからこういう歌ができたのかと思っていたら
> この歌は戦争中につくられた歌でした。
>
> 三原純子は楠木繁夫と恋仲になり、1943年(昭和18年)結婚。
> 人気歌手とうしの夫婦だったが、空襲で東京の家を焼失したため、夫妻は三原の故郷である飛騨高山に疎開。
> 終戦後に、夫はヒロポン中毒になり、いっぽう彼女は結核となり故郷で療養生活をおくるうちに
> 東京で一人暮らしていた楠木繁夫は自殺。


[No.67] 野町から野々市/北鉄石川線 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/09(Sat) 06:54
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オアシスさん

> 鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。

> 電車は廃線になっちゃったんですね。

失礼しました
北陸鉄度の石川線として今も運行しているようです。
http://www.hokutetsu.co.jp/train/ishikawa-sen.html


[No.69] Re: 野町から野々市/北鉄石川線 投稿者:オアシス  投稿日:2013/11/09(Sat) 10:19
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男爵さん、丁寧な正確な情報を有り難うございました。
>
> > 鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。
>
> > 電車は廃線になっちゃったんですね。
良かったぁ。飛び乗ってぶら下がっての中1の思い出が
懐かしくしのばれます。

本当に有り難うございました。

                 オアシス
>
> 失礼しました
> 北陸鉄度の石川線として今も運行しているようです。
> http://www.hokutetsu.co.jp/train/ishikawa-sen.html


[No.72] Re: 卒業旅行なし 投稿者:マーチャン  投稿日:2013/11/10(Sun) 08:44
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男爵さん オアシスさん みなさん

 おじゃまします。

> ところで
> 学童疎開は経験されませんでしたか?

 私は最後の「学童疎開組」でした。

 何しろ、まだ9つでしょう。
 
 最初は、遠足のつもりで、ルンルン気分でした。

 しかし「楽しい遠足」どころか「厳しいサバイバルゲーム」だということが
 すぐに分かりました。


[No.75] Re: 卒業旅行なし 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/10(Sun) 09:51
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マーチャン オアシスさん みなさん

> > ところで
> > 学童疎開は経験されませんでしたか?
>
>  私は最後の「学童疎開組」でした。
>
>  何しろ、まだ9つでしょう。
>  
>  最初は、遠足のつもりで、ルンルン気分でした。
>
>  しかし「楽しい遠足」どころか「厳しいサバイバルゲーム」だということが
>  すぐに分かりました。

やはり。

楽しい「学童疎開」というのか聞きませんね。

食べ物は少ないし、親と離れているし。


[No.76] Re: 卒業旅行なし 投稿者:オアシス  投稿日:2013/11/10(Sun) 10:34
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まーちゃん、 男爵さん、 みなさん
学童疎開 集団疎開ですね。9つじゃ大変だったですね。
私は縁故疎開、それも小学校6年からですから、、、

「厳しいサバイバルゲーム」でしたか、何となくわかる
気がします。
どちらででしたか?

              オアシス

>
>  おじゃまします。
>
> > ところで
> > 学童疎開は経験されませんでしたか?
>
>  私は最後の「学童疎開組」でした。
>
>  何しろ、まだ9つでしょう。
>  
>  最初は、遠足のつもりで、ルンルン気分でした。
>
>  しかし「楽しい遠足」どころか「厳しいサバイバルゲーム」だということが
>  すぐに分かりました。


[No.81] Re: 卒業旅行なし 投稿者:マーチャン  投稿日:2013/11/10(Sun) 21:46
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オアシスさん

> 「厳しいサバイバルゲーム」でしたか、何となくわかる
> 気がします。
> どちらででしたか?

 長野県の鹿教湯温泉でした。
 上田からずっと奥へ入ったところです。
 更に奥ヘ行くと美ヶ原方面へ行く道があったと聞きました。

 山深い、農耕地の少ない寒冷地に大勢の学童を押し付けられた
村の人達も大変だったと思います。

毎食いただく、薄いおかゆには大根がたくさん入ってました。
 いつも、お腹が空いていました。


[No.84] Re: 卒業旅行なし 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/11(Mon) 05:08
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マーチャン

> > 「厳しいサバイバルゲーム」でしたか、何となくわかる
> > 気がします。
> > どちらででしたか?

>  長野県の鹿教湯温泉でした。
>  上田からずっと奥へ入ったところです。
>  更に奥ヘ行くと美ヶ原方面へ行く道があったと聞きました。

鹿教湯温泉(かけゆおんせん)は、長野県上田市(旧丸子町、旧鹿教湯村、旧国信濃国)にある温泉だそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E6%95%99%E6%B9%AF%E6%B8%A9%E6%B3%89

鉄道:長野新幹線およびしなの鉄道上田駅より千曲バス奥鹿教湯病院線で約70分
自動車:長野自動車道では松本ICまたは安曇野ICから40分

山奥の秘湯という感じで、湯治には良さそうですが....