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[No.8] 遠足の行き先 投稿者:   投稿日:2013/11/01(Fri) 20:28
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遠足の行き先
画像サイズ: 620×447 (70kB)
  小学校の遠足では、いえが東京だったので、井の頭公園や、高尾山が思い浮かぶが、さすが写真はない。

 しかし、中学時の写真があった。これは、たしか2年の時だと思う。行き先は、箱根である。関所のところで、撮ったらしい。なにか、そんなことが書いてある。

左側の看板は、注意書きだが、出したのが、内務省となっていて時の移り変わりを思わせられる。真中は配属将校で、軍刀を大事そうに抱えている。生徒も戦闘帽を被って写っている。


[No.10] Re: 遠足の行き先 投稿者:あや  投稿日:2013/11/01(Fri) 21:11
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>  しかし、中学時の写真があった。これは、たしか2年の時だと思う。行き先は、箱根である。関所のところで、撮ったらしい。なにか、そんなことが書いてある。
>

かわいらしい! 何とも言えない腕白どもがたくさん群がっていて!
紋ちゃんはどこかなと思ったけど?

それにしても現代と違う思いがする写真ですね。

> 左側の看板は、注意書きだが、出したのが、内務省となっていて時の移り変わりを思わせられる。真中は配属将校で、軍刀を大事そうに抱えている。生徒も戦闘帽を被って写っている。

あぁっ! ここでわかりました。現代と違うと書いたことが!
生徒も戦闘帽を被っていると読んだので! 


[No.11] Re: 遠足の行き先 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2013/11/01(Fri) 22:18
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  あやさん、みなさん、こんばんは。

> >  しかし、中学時の写真があった。これは、たしか2年の時だと思う。行き先は、箱根である。関所のところで、撮ったらしい。なにか、そんなことが書いてある。

> かわいらしい! 何とも言えない腕白どもがたくさん群がっていて!
> 紋ちゃんはどこかなと思ったけど?

> それにしても現代と違う思いがする写真ですね。

> > 左側の看板は、注意書きだが、出したのが、内務省となっていて時の移り変わりを思わせられる。真中は配属将校で、軍刀を大事そうに抱えている。生徒も戦闘帽を被って写っている。

> あぁっ! ここでわかりました。現代と違うと書いたことが!
> 生徒も戦闘帽を被っていると読んだので! 

生徒の鞄の紐だが、黒いのと白いのと、二つある。服もぜんぶが黒でなく、違う色の子もある。白でないのは、グレーなのだろうか、それとも、黄色っぽいのか、青っぽいのか、あっしには、よく分からない。

 先生で、ソフトのようなのを被ってるのもあり、当時は服装もまだ、割と自由だったのか。


[No.13] Re: 遠足の行き先 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/02(Sat) 05:50
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唐辛子紋次郎さん、あやさん、みなさん、こんばんは。

> 小学校の遠足では、いえが東京だったので、井の頭公園や、高尾山が思い浮かぶが、さすが写真はない。

いなかの小学校の遠足なら、全行程を歩くことが多いのですが
東京では、井の頭公園や、高尾山は
電車やバスなど使って移動するんでしょうね。

私は学校の近くに住んでいたんですが、友だちの中には
家から学校まで1時間歩いて通う人もいました。
遠足が終わっても、また家まで歩くというので気の毒に思ったことがあります。

> > >  しかし、中学時の写真があった。これは、たしか2年の時だと思う。行き先は、箱根である。関所のところで、撮ったらしい。なにか、そんなことが書いてある。

> > > 左側の看板は、注意書きだが、出したのが、内務省となっていて時の移り変わりを思わせられる。真中は配属将校で、軍刀を大事そうに抱えている。生徒も戦闘帽を被って写っている。

軍国の中学生の遠足でした。 貴重な写真でした。


[No.27] Re: 遠足の行き先 投稿者:あや  投稿日:2013/11/03(Sun) 20:36
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> いなかの小学校の遠足なら、全行程を歩くことが多いのですが
> 東京では、井の頭公園や、高尾山は
> 電車やバスなど使って移動するんでしょうね。

そうですね。小学校の1.2.3年くらいなら近くへ、全工程を歩いてでしたが、
上級生になると電車もありましたね。

>
> 私は学校の近くに住んでいたんですが、友だちの中には
> 家から学校まで1時間歩いて通う人もいました。
> 遠足が終わっても、また家まで歩くというので気の毒に思ったことがあります。

中学生の時は1時間近く歩いたかも知れません。遠かったです。
でも、歩きましたね。なんとも感じませんでした。


[No.26] Re: 遠足の行き先 投稿者:あや  投稿日:2013/11/03(Sun) 20:31
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> 生徒の鞄の紐だが、黒いのと白いのと、二つある。服もぜんぶが黒でなく、違う色の子もある。白でないのは、グレーなのだろうか、それとも、黄色っぽいのか、青っぽいのか、あっしには、よく分からない。
>
>  先生で、ソフトのようなのを被ってるのもあり、当時は服装もまだ、割と自由だったのか。

再び写真を大きくして見たけど、こんど気がついたことは、前に座っている
男の子たちの足がとても可愛く、いい表情をしていることです。
足がいい表情しているなんて、おかしなことだけど、そう思うの!

とにかく可愛いわ(^○^)


[No.28] Re: 遠足の行き先 投稿者:安房守  投稿日:2013/11/03(Sun) 22:41
[関連記事URL:http://homepage1.nifty.com/AWA/

私は国民学校低学年の時に川崎に住んでまして遠足先は川崎大師と六郷橋河原でした。
戦後直ぐの川崎大師は何にも無い明治時代の写真のようなイメ−ジでしたが、
何十年振りに訪れた時はガサガサと喧噪しておりその昔のイメージの欠片も有りませんでした。
六郷橋を渡るタンビに昔とは打って変わった当時の遠足の事を思い出します。
しかし、幾つに成っても「川崎大師」「六郷橋」の名前は忘れません。
遠足は今でも何かに付け和ませてくれる幼き日の楽しかったなぁと言う想い出です。

安房守

>   小学校の遠足では、いえが東京だったので、井の頭公園や、高尾山が思い浮かぶが、さすが写真はない。
>
>  しかし、中学時の写真があった。これは、たしか2年の時だと思う。行き先は、箱根である。関所のところで、撮ったらしい。なにか、そんなことが書いてある。
>
> 左側の看板は、注意書きだが、出したのが、内務省となっていて時の移り変わりを思わせられる。真中は配属将校で、軍刀を大事そうに抱えている。生徒も戦闘帽を被って写っている。


[No.29] Re: 遠足の行き先 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/04(Mon) 05:55
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安房守さん

> 私は国民学校低学年の時に川崎に住んでまして遠足先は川崎大師と六郷橋河原でした。
> 戦後直ぐの川崎大師は何にも無い明治時代の写真のようなイメ−ジでしたが、
> 何十年振りに訪れた時はガサガサと喧噪しておりその昔のイメージの欠片も有りませんでした。
> 六郷橋を渡るタンビに昔とは打って変わった当時の遠足の事を思い出します。

我々がいま見る「川崎大師」や「六郷橋」は
安房守さんのイメージとは少し違うのでしょうね。


[No.46] Re: 遠足の行き先 投稿者:BUP  投稿日:2013/11/07(Thu) 14:59
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安房守さん 皆様 コンニチハ
小生は大森第三 大森五丁目(帝国女子医専の傍)
一年生(昭和7年?)は六郷川の土手
二年生 鶴見の花月園(今はアリマセン)
三年生 高尾山 ?
四年、五年生  記憶消失
六年生 卒業修学旅行 伊勢、奈良、京都の予定で 費用積立中でしたが、戦時下と言うことで、日光一泊に変更されてしまいました。    


[No.48] Re: 遠足の行き先 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/07(Thu) 15:25
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BUPさん コンニチハ

> 小生は大森第三 大森五丁目(帝国女子医専の傍)
> 一年生(昭和7年?)は六郷川の土手

 帝国女子医専って
朝の連続テレビ小説『梅ちゃん先生』の主人公が女子医学専門学校で学び、蒲田の町医者へと成長していく、あのドラマと関係のある学校ですか。

 東邦大学は1925(大正14)年に帝国女子医学専門学校として創設され、1930(昭和5)年に帝国女子医学薬学専門学校と校名を変更。
「女子の理科系教育の向上と健全な人間性の育成」という目標の下に教育を行い、多くの女性医療従事者を輩出してきた。

> 六年生 卒業修学旅行 伊勢、奈良、京都の予定で 費用積立中でしたが、戦時下と言うことで、日光一泊に変更されてしまいました。  

京都・奈良が日光に変更されても
修学旅行ができて良かったですね。  


[No.49] Re: 遠足の行き先 投稿者:BUP  投稿日:2013/11/07(Thu) 16:18
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男爵さん コンニチハ
>  帝国女子医専って
> 朝の連続テレビ小説『梅ちゃん先生』の主人公が女子医学専門学校で学び、蒲田の町医者へと成長していく、あのドラマと関係のある学校ですか。
書き忘れました、その通りです。
当時、堤方町に在った、当家から、帝国女子医専の寄宿舎の間の道を通り大森第三尋常小学校まで、10分くらいの距離でした。
国電(当時は省線)の駅は蒲田駅の方が近くで、中学に進学してからは蒲田駅から乗車してました、
大森駅の近所に白木屋が出来て、エレベーターに乗りに通ってました。
図書館も大森駅方向で、”のらくろ”の漫画を見に通ってました。
戦時中に強制疎開で、大森駅近くの馬込の高台に転居しました。
昭和20年の東京大空襲の夜、たかたま輸送機のエンジン交換で、内地に居て、大森馬込の家で、夜中に北の方角が真っ赤に燃えているのを目撃しましたが、翌日、何も知らずに、羽田から空路、南の最前線へ向かいました。
以上、想い出したママ。


[No.50] Re: 遠足の行き先 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/07(Thu) 16:31
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BUPさん コンニチハ

> 大森駅の近所に白木屋が出来て、エレベーターに乗りに通ってました。
> 図書館も大森駅方向で、”のらくろ”の漫画を見に通ってました。
> 戦時中に強制疎開で、大森駅近くの馬込の高台に転居しました。
> 昭和20年の東京大空襲の夜、たかたま輸送機のエンジン交換で、内地に居て、大森馬込の家で、夜中に北の方角が真っ赤に燃えているのを目撃しましたが、翌日、何も知らずに、羽田から空路、南の最前線へ向かいました。

馬込といえば 馬込文士村
ここには、大正後期から昭和初期にかけて東京府荏原郡馬込村を中心に多くの文士、芸術家が暮らしていた地域。
現在の住居表示だと東京都大田区の山王、馬込、中央の一帯となるのだそうです。

しかし
東京大空襲のときに
南方の戦地に向かったのですか。

生死の境を生き延びてきたんですね。


[No.53] Re: 遠足の行き先 投稿者:安房守  投稿日:2013/11/07(Thu) 19:04
[関連記事URL:http://homepage1.nifty.com/AWA/

BUPさん 男爵さん 今晩は

私は馬込に有った会社に就職してその会社の寮で一年弱過ごしたことがあります。
その後に馬込文士村の名前くらいは聞いたことがありますが、
今あらためてネットで見て吃驚です。
http://www.magome-bunshimura.jp/uploads/img458a38c7722bd.gif
当時、そんな事に全く興味が無く毎晩飲み歩いていて、
給料日に借金を払って廻ると殆ど手元に残らない、私の馬込の想い出はそんなものです。

安房守

> 馬込といえば 馬込文士村
> ここには、大正後期から昭和初期にかけて東京府荏原郡馬込村を中心に多くの文士、芸術家が暮らしていた地域。
> 現在の住居表示だと東京都大田区の山王、馬込、中央の一帯となるのだそうです。
>
> しかし
> 東京大空襲のときに
> 南方の戦地に向かったのですか。
>
> 生死の境を生き延びてきたんですね。


[No.54] Re: 遠足の行き先 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/07(Thu) 19:11
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BUPさん  安房守さん 今晩は

> 私は馬込に有った会社に就職してその会社の寮で一年弱過ごしたことがあります。
> その後に馬込文士村の名前くらいは聞いたことがありますが、
> 今あらためてネットで見て吃驚です。
> http://www.magome-bunshimura.jp/uploads/img458a38c7722bd.gif

> 当時、そんな事に全く興味が無く毎晩飲み歩いていて、
> 給料日に借金を払って廻ると殆ど手元に残らない、私の馬込の想い出はそんなものです。

それは残念でしたね。
灯台もと暗しでしょうか。(ちがうかもしれませんが)

飲む場所は揃っていそうな場所ですね。