幼稚園児のころ、長兄はカメラを持っていました。古ぼけた革のケースに入っていました。ライカだったと聞いています。そのカメラの行方は存じません。 戦争中・戦争直後の写真というものは殆どありません。それどころじゃなかったのと「カメラを持ってウロウロしていると特高に捕まる」という噂があったりしたためではないでしょうか。
戦後、長兄が買ったのは「リコー二眼レフ」というカメラでした。 大きな重い箱でした。これは流行ったようです。 1980年代の後半になると「写ルンです」のような「私にも写せる」カメラがテレビのコマーシャルに乗って華々しく登場して、我々メカに弱い人間も写真が撮れるようになりました。
21世紀初頭には、ケータイにカメラ機能が搭載され、一億総カメラマン時代になりました。 一方、デジカメの機能も向上し、一万円で買えるカメラも、1000万画素を超えましたし、スマホのカメラは更に高性能になってきました。
そうなると、カメラは「立派な写真を撮るためのもの」と「常に携行していて記録としての写真を撮るための道具」の二面性を持ってきたような気がします。 噴火・竜巻などの異変、ひき逃げなどの事件現場の写真は「たまたまそこに居合わせた人」によって捉えられた「決定的瞬間」が大切であり、カメラの性能やカメラマンの腕とは関係がなくなります。
日常生活の中でもケータイやスマホのカメラは「記録用の道具」になりつつあります。 バスの時刻表が書き換えられると、何人もの人が、ケータイやスマホで時刻表を写していますし、外出先で珍しい花を見た時も、あとで調べるためにとりあえず写真をとっておきます。「子どもの腕によく出る発疹をカメラで撮影し定期健診のときに医師に見せる」というおかあさんもいます。
カメラの変遷も私達の日常生活に変化もたらした、そんな気がします。
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