> > 妻美知子の書いた本 人文書院 昭和53年
(この原稿を書いているうちにパソコンの調子が悪く全部消えてしまって、再度書いたりしたので、こまめにアップするようにします)
「女生徒」は、若い女性の一愛読者から送られたノートに拠っている。 これはS子さんの昭和13年、19歳の、4月30日から8月8日までの日記で、伊東屋の大判ノートブックに、ぎっしり書いてある。 肉筆の書き流しで、大変読み辛い。これを一読ざっと「可憐で、魅力的で、高貴でもある」(川端康成評)魂を、つかみとった太宰は、傍らにあった岩波文庫の「女生徒」から題名をとって八十枚まの小説に仕立てて「文学界」昭和14年4月号に発表した。 太宰が印をつけて書き入れたりしているそのノートが残っているが、「女生徒」の書き出しと終わりの部分は全くノートにはない。 そのころ太宰の家に遊びに来ていた塩月氏が、この女生徒の人と結婚したいから世話役をしてくれと太宰に頼んできた。 太宰もまだ本人に会ったことがないから、昭和14年の年末にS子さんの家を訪問し、翌年早々に太宰はS子さんの母親に手紙を書いた。 その中で、太宰と同じ年の友人塩月氏は東大美学科を出て東洋経済社の編集部に勤めていること、まじめな人物で、初婚であることなど述べて、塩月氏がS子さんと見合いしたいという希望を伝えている。 さて、見合いは無事終わったのだが、塩月氏は、S子さんの体格がよすぎることを理由に、断りたいと言って、大変落胆していたという。 ☆ S子さんの方が塩月氏よりも数センチ背が高かったらしい。 今ならそういうカップルもいるが、当時はなかなか抵抗があったのだろうか。 小説「女生徒」の印象では、誰でも小柄な女生徒をイメージしそうである。
たけさんに美知子が初めて会ったのは終戦翌年の4月末であった。 昭和20年7月 疎開していた甲府の妻の実家が空襲で全焼し、妻子を連れ津軽の生家へたどりつく。 昭和21年11月 妻子とともに三鷹の自宅に帰る。 兄文治は国会議員の選挙に当選したので、まだ春寒い4月に たけさんは当選祝いの挨拶や、祖母の見舞いや、また疎開中の修治も会いたくて、小泊から金木の実家に出てきて、津島家を訪れたのであろう。 当時は太宰一家は離れに暮らしていたが、知らせがあって離れの奥座敷から出て行くと、母屋に一番近い座敷の外側の廊下で、たけさんが七つか八つくらいの女の子を連れてくるのと出会った。 案外若いと思った、と美知子は書いている。あの津軽を読んだ私もなんとなくお婆さんと思っていたが、目の前にいるたけさんは、店番でもなんでもできそうな中年すぎのおばさんであった。それもそのはず、太宰より11歳くらい年上のたけさんは、そのときまだ50前だったのだ。 たけさんと美知子が廊下で立ったまま挨拶していると、傍らの障子をあけて、書斎にいた太宰が出てきた。 そして妻にほんの二こと三こと言葉をかけると、怱々(そうそう)に母屋のほうに立ち去った。 たけさんに「よくきたな」とも言わず、笑顔も見せず。意外に思う美知子。 たけさんは太宰のうしろ姿を眼で追いながら「修治さんは心の狭いのが欠点だ」と、これまた突拍子もないことを言った。 妻も驚く、金木での太宰とたけさんとの再会。 ここにも書いてあるように、美知子は現実と小説をごっちゃにしていた。 「たけさん現わる」と聞き、「津軽」の終わりの方の、劇的場面が再現されるような期待を抱いていたのではないか。あの小説では久々の対面であり太宰の脚本も加わっていたのだ。そのことを妻は忘れていた。 たけさんの語らんとする太宰の人物評は、妻も感心するくらい的を射ている。 (もちろん、たけさんは常識人として、太宰をの欠点を批評するのである) そして太宰はすばやくその「人物評」が女房の前で、とりだされるのを予感して逃げたのだ。 事前に一瞬の差で逃げ去った太宰も太宰だが、たけさんもよく彼の「人」を見抜いている。 太宰は皮をむかれて赤裸の因幡の白兎のような人で、できればいつも蒲の穂綿のような、ほかほかの言葉に包まれていたいのである。 たけさんは太宰の性格をよく知っている。甘やかせばキリのない愛情飢餓症であること、きびしい顔も見せなくてはいけない子であることを知っている。 一方で、たけさんの素直な、粗野な飾り気のない性格から、いつ耳に痛い言葉が飛び出すかわからないことを太宰は知っている。 「思い出」と「津軽」に、たけさんが太宰に言った言葉として、「油断大敵でせえ」「たけは、本を読むことは教えたが、酒だの煙草だのは教えねきやなう」と記されている。 育てた人は強い、と美知子は思う。こんなことが言えるのだから。 たけさんの人柄は、美知子は後日接して知ったが、裏と表を使い分けできる、演出のうまい型ではない。 太宰は「逃げるに如かず」と直感したのであるが、もしたけさんが「心が狭いのが云々」と言ったのを、太宰が聞いていたら、きっと「真向唐竹割りにやられた」という風に感じたであろう。 うまく逃げて聞かなかったのは、かえってよかったのかもしれない。 ☆ 感じたままストレートに言うたけさん。それを聞くのは太宰は辛いこと。 小説「津軽」にあるような劇的な再会は、かなり太宰に劇味ショックを与えたのかもしれない。会いたくもあり、聞きたくない言葉も聞かねばならなかった太宰。 妻はあのクライマックスをもう一度と期待したかもしれないが、太宰にとっては二度とはごめんという気持ちだったろうか。
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