本日はある会合があり そこでの講演資料をちょっと紹介します。
中里介山「大菩薩峠」の中に八戸のサムライ・柳田平治が出てくる。 (八戸に)「柳田平治」こと「梁田平治」というサムライの墓石がある。
「大菩薩峠」の中で 造船をする「駒井甚三郎」と、かれとともに「椰子林の島」に一緒に行く一人が八戸の「柳田平治」である。 机龍之介の「音無の構え」とその「殺陣」は宮沢賢治を魅了して 賢治は龍之介について詩を書いている。 一、二十日づきかざす刃は音なしの 虚空も二つときりさぐる その龍之介 二、風もなき修羅のさかひを行き惑ひ すすきすがるるいのじ原 その雲のいろ 三、日は沈み鳥はねぐらにかへれども ひとはかへらぬ修羅の旅 その龍之介
賢治は龍之介の生きかたに関心をもったのだろう。 しかし、賢治は「駒井甚三郎」や「柳田平治」についてはふれていない。 「駒井甚三郎」や「柳田平治」が「椰子林の島」へ行くのは昭和十年以降のことで、賢治は昭和八年に亡くなっているから。
介山は「大菩薩峠」が有名になって生活に余裕ができると、羽村に土地を求め「西隣村塾」をもった。そして、八戸の柞木田龍善がこの塾に入る。 介山は、この青年と、もう一人の八戸の青年で塾生であった柳川保和とをモデルに「柳田平治」を大菩薩峠に登場させた。
そもそも介山は「大菩薩峠」でなにを暗示したのだろうか。 この長編は昭和十年代になって、ユートピアとしての「椰子林の島」が考えられ、この島に降り立った人々はここで介山のいう「植民地」=理想郷づくりをはじめる。
柞木田が東北大凶作中の八戸地方から介山の「西隣村塾」という介山が夢想したユートピアへやってきたように、介山は駒井や平治を「椰子林の島」というユートピアへ行かせ、それまでの社会組織をぬけさせたのではあるまいか と講演者のH先生は言うのでした。
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