鶴谷憲三編 spirit 太宰治 作家と作品 有精堂
この本には 太宰治の作品がいくつか取り上げられて その小説の重要な部分が紹介され 解説が述べられている。
ここでは「津軽」について紹介します。
太宰がこの作品を書くために津軽を実際訪れたのは 昭和19年5月12日から6月5日までの間であり、具体的な足跡をたどれば以下のようになる。 東京出発(5月12日)ー青森経由、蟹田着、中村貞次郎氏宅に逗留(4日位)ー三厩泊りー竜飛泊りー蟹田帰着、中村氏宅に逗留(2、3日)ー金木町生家着(4、5日逗留、22日頃から26日頃迄)ー五所川原、木造経由深浦泊りー鰺ヶ沢経由五所川原泊りー小泊泊りー蟹田帰着、中村氏宅に逗留ー東京帰着(6月5日) この時の津軽旅行は、蟹田を起点とし、終点としている。
この津軽の旅行記を 実質的な育ての親と思われる女中のたけとの邂逅というクライマックスにまで変容させていくところに 作家としての太宰の才能がうかがわれるのである。 この作品を太宰文学の白眉とする識者は多い。
太宰の見た津軽の世界を最も象徴するのは、蟹田分院の事務長のSさんの姿であろう。 常軌を逸するかのような、その「疾風怒濤の如き」「熱狂的な摂待」、「過度の露出」こそ「津軽人の本性」「愛情」の顕現である。 裏返して言えば、「人一倍はにかみや」という繊細な神経の持ち主であるがために、必要以上のサービス精神を発揮するのであって、結果的には他者を辟易させ、本人もまた傷つくことになるのである。
後年、太宰治は「十五年間」において、この時の旅で発見したのは「拙劣さ」「不器用さ」、つまり、故郷である「津軽のつたなさ」であり、自分が決して「文化人では無かった」ということであると回想している。 しかしながら、このことによって「健康を感じた」とも述べている。
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太宰は この小説の中で 決して「虚飾」も「だまし」たりもしなかったと述べている。 が他の本に書いてあるように たけとの再会は短かったのだが 小説ではクライマックスにふさわしいように整えられているようである。
この本では、それを次のように説明している。 太宰の内的自然から言えば 決して「虚飾」も「だまし」たりもしなかったはずである。 「信ずるところに現実があるとする」とする<私>には まさしくかくありたいとする感情の在り様を正直にかつ正確に 映し出した<現実>に他ならないからである。
この文章を書くとき 「邂逅」と「辟易」という漢字を見つけるため苦労した。
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