漫画版 誰も独りでは生きられない 作画しいや みつのり 彼は赤塚不二夫のアシスタントをつとめた。 この漫画の雰囲気はどこか「釣りバカ日誌」の北見けんいちの漫画と似ている。 北見けんいちも赤塚不二夫のアシスタントだった。 赤塚不二夫の影響を感じないが、しいや みつのり と 北見けんいち の 漫画の雰囲気が似ているということは、やはり赤塚不二夫の影響があるのだろうか。
今年のように、暑い熊谷の夏、著者は涼を求めて図書館に行き「誰も独りでは生きられない」を読む。 感激して、出版社の了解のもと、漫画版を描くことになる。
ここでは家族の話を紹介するが、他にも恩師の話など、心に残る話が多い。
○ ○ 梨の味 これまでの人生で影響を受けた人や言葉は と聞かれれば普通誰もが教育者とか偉人を思い起こそうとするのではないか。 しかし私はふと考えた。 最も影響を受けた人はと聞かれれば 母を除いてはこたえられないのだ。 いや母を除いて考えてはいけないのだという気持ちになる。 母について思い出すことはたくさんあるが ここに一つだけ記したい。 昭和26年のころ ある日我が家のちゃぶ台に梨が載っていた。 母が皮を剥き 一個を四等分に切って皿に盛っていた。 母と父そして私と弟 四人家族である。 私はその時 七歳だったかと思う。 弟は三つ年下。 その梨は二十世紀とも呼称されていた。 鳥取県産で有名な果実であるのは子供の私でも知っていた。 私の家は鳥取県から遠く離れていた 小さな貧しい村だった。 地場産業の一つである瓦製造工場に私の両親は勤めていた。 その傍ら小さな畑を耕して自らの家で食する程度の野菜を育てていた つつましい生活であった。 梨は桃やバナナなどと共に 贅沢な食品だった。 我が家では それらは一年に一回しか食べられなかった。 暑い日差しが残る午後だった。 丸い型のちゃぶ台の真ん中 ありふれた水色の陶磁器の皿に 四切れの白い果肉の梨 見るからに水々しかった。 その日も 私は少しでも大きいと見える一切れを選び指で掴んでかじった。 予想した通りの旨さだった。 次に弟が掴んだ。 弟はすぐ家の外へ遊びに行ってしまった。 次に父が食べた。 皿の上に一個残った。 私は自分の分はたちまち食べ終わったが 残っている一個から目が離せなかった。 勿論その一個は母が食べるものとわかっていた。 私は何気なく梨の一切れから目を離して母を見た。 いや母は先程から私を見続けていたのだ。 七歳の長男がどんな表情をしてどんな仕草で 果物一切れを食べるのか見守っていたのだ。 そうして母はすべてを察知していたのだ。 食べていいよ 母は微笑というより さらに人には気付かれないくらいの静かな笑みを見せて言った。 私は驚いた。 母ちゃんだって食べたい筈なのに いいのくれるの 私は心の中で大きな声を上げていた。 私は咄嗟に考えていた。 母は酒などは嫌いで甘いものが好きなのだ。 この梨だって食べたいに決まっている。 それなのに子供に食べよと言っている。 いま食べないと もしかしたら来年まで食べられないかもしれない。 それなのに自分は食べなくていいという。 なんて心が大きいのだろう。 私は心が震えるような思いでその梨を食べた。 そして食べている途中もさらに食べ終わっても 子供心に考え続けていた。 母ちゃんは 自分が食べてもいいものを ひとに譲った。 なんていう凄い行いだ 心が大きい。 子供には真似できない あの時私は これが母親の我が子への愛情なんだ という具合には感じなかった。 そうではなく とにかく大人は心が大きいとばかり思い感心もしていた。 巷間 人間は結局自分が一番かわいいものなのだなどと言われる。 こんなことを聞くと 私は母が譲ってくれた梨の一切れを思い起こすのだ。 自己中心の人間 自分勝手な人間ばかり 世にあふれている と見えてしまうことがある。 いやそんなことはない などと私は胸の中で自問自答を繰り返している。
○ ○ 空襲とお守り 昭和二十年七月一日 熊本大空襲は当時中学一年生だった私にとって 忘れられない体験として鮮明によみがえってくる。 母に起こされて まだよく目覚めていなかった私も 次第にいよいよ恐れていた事態が起きているのだと ことの重大さがわかってきた。 枕元にたたんでおいた衣服を手に取ると 母に急がされて蚊帳の外にでた。 母と姉は素早く蚊帳をはずして その中に使っていた夜具を放り込み 一纏めにすると 私と弟を急き立てながら 一番近い通りに作られた防空壕に避難させた。 連絡するまで その場から動かないようにな そう言うと母は姉と二人で家の方へ戻って行った。 家に留まって消火活動をするつもりでいたようだ。 真っ暗な防空壕の中に小学五年生の弟と二人の外には 人のいる気配はなく 隣近所の人々もまだ来ていなかった。 やがて地面を震わすような大編隊と思われる爆音が 長い間続き過ぎ去るとまた慌てふためく人々の悲鳴が起こった。 次から次へと人々の走り去る足音と 引き攣ったような叫び声を聞きながら 母たちは何をしているのか このままでは取り残されて逃げ遅れてしまうのてはないか という不安に怯えながら私と弟は 暗闇の中にしゃがみこんで震えていた。 やがて姉が来て防空壕の入口から まだここは大丈夫 後で裏の防空壕に移るからこのままここに居てね と意外に冷静な声で言った。 私と弟は怖いと訴えた。 お守りさんをしっかりと握っていなさい そう言うと姉はまた行ってしまった。 私はお守りさんのことなどすっすり忘れていたので それに気づくと 首から提げていたお守りさんを手に握り締めた。 そうしていると不思議なことに 御仏の大きなお加護を受けているような安心感を覚えることができた。 この時ほどお守りさんが有難いと感じたことはない。 そして弟が泣いているのに気がついた。 弟はお守りさんをなくしたと言う。 学校で相撲をして遊んだ時に外して紛失したということだ。 僕にも握らせて 手を伸ばしてくる弟に対して 私はお守りをなくした弟を責めてお守りを握らせてやれずにいた。 弟は益々声を上げて泣き出した。 しばらくして姉が来た。 明らかに先程よりも緊迫した口調で 裏の防空壕に移ることを告げた。 弟は泣きながらお守りさんを失って持っていないことを姉に訴えた。 弟の訴えを聞くとはいこれを持っていきなさい と姉は自分の身に付けていたお守りをはずすと弟の首に掛けてやった。 私はあっさりとお守りを弟に与える姉の勇気にびっくりした。 姉は私より三つ上で高等女学校の三年生だった。 私と弟は姉に連れられて走って裏の防空壕に避難した。 ほとんど同時に住居の床下の壕に避難していた同じ隣組の二家族の三、四人が 駆け込んできた。 防空壕の天井が地響きして土砂が降ってきた。 入口の扉から横壁の枯れた竹を伝って火が燃え広がってきた。 壕内に煙が充満して息苦しくなってきた。 苦しい、たすけてと悲鳴が起こった。 幸いにも母がバケツに汲んできた僅かな水にタオルを浸して 地面に這って何とか危機を脱した。 夜が明けた時赤ん坊を含めた数家族が窒息死や焼死しているのがわかった。 私の戦争体験はいろいろあったが やはり防空壕での出来事が一番心に残っている。 いまでも弟と会う時 口にしたことはないが 心の中では すまなかったと謝り自分を恥じている。 また 姉には絶対に逆らえない。 今でも私の卑怯な行為にたいして姉の偉大さに頭が上がらない
---------- もののあふれた現代では、1個の梨を4切れに分けて一家で食べるのが年に一度の 楽しみというのは理解できないかもしれない。 ものに不足しているときのほうが、ものの価値とか人間の優しい心がわかるのかもしれない。 空襲から身を守るはずの防空壕も、そうとはならない例を 茨城県の吉田正記念館に行ったとき知った。 吉田正は兵士として大陸に行っていたころ 日立の実家では、彼の家族は全員防空壕のなかで焼死したという。 シベリヤから帰ってきた彼は、天涯孤独の身の上となっていた。
しいや みつのりの絵が とてもいいのだけれれど、再現できないのが残念。 それにしても 赤塚不二夫はいい弟子をもったものだ。
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