この本の著者が育った家は 建築家の父親が住宅金融公庫のむ融資を受けて建てた家で 昭和26(1951)年に入居したという。 最初は水道もガスもなかった。 井戸を掘ったのは翌年、ガスが引けたのは昭和40(1965)年頃だった。 四人姉妹の長女が、やがて建築家としてこの家の保存を考え 「昭和のくらし博物館」として一般公開した。 この本は、その解説書になっている。
パン焼き鍋 戦後に不要になった航空機用のアルミで作られた日用品である。 丸くて平たい太鼓形で、中に煙突が突き出している。 一種の天火である。 当時はまだ配給制度が存続していて米は不足していたから 代用食のパンを焼いたみのがこのパン焼き鍋であった。 小麦粉と塩と膨らし粉か重曹を混ぜて水でこね、七輪の火にかけるとパンらしきものができた。 まだ砂糖も不自由だったので、サツマイモの粉を混ぜたり、サツマイモを刻んで混ぜることもあったという。 若い人たちはこのパン焼き鍋を知らないから、実演して見せた。 市販のミックスパウダーを使うとおいしいスポンジケーキが焼けた。 彼らは、短時間で焼けるのに驚いていた。オーヴンだともっと時間もかかるのに。
電気冷蔵庫 当時の三種の神器はテレビ・洗濯機・冷蔵庫だった。 戦後の日本人が驚いたのがアメリカの家庭漫画「ブロンディ」に出てくる冷蔵庫である。 ブロンディの夫のダダウッドがよく夜中に電気冷蔵庫を開けてサンドイッチを作って食べる場面がある。 冷蔵庫にハムやミルク、果物などがぎっしりと詰め込まれているのをみて当時の日本人はショックを受けたのであった。 氷冷蔵庫が普及しはじめたのが、ちょうど電化時代が始まった昭和30(1955)年代である。 著者の家でも、親戚がいらなくなった氷冷蔵庫をもらいうけて使い出したのが昭和30年代はじめであったが、電気屋の勧めがあり昭和35(1960)年に電気冷蔵庫に変えた。 電気冷蔵庫は氷冷蔵庫と違って、たんに冷やすだけでなく、低温が継続するため保存性において優れていた。 毎日氷を入れる手間もいらないし、収納容量も大きい。そして製氷機能もある。 日本経済が活況を呈してきて人手が足りず女性も外に出て働くようになったこと 収入も増加してきたことなどから、はじめはたんにアメリカ式文化生活の憧れだった電気冷蔵庫は生活必需品にと変わってきた。 値段も下がり、使いやすくなり、昭和50(1975)年代には電気冷蔵庫の普及率は99%に達した。 そして日本人の食生活もすっかり変わってしまった。
ミシン 戦前にミシンが一番多かったのは昭和15(1940)年で、ミシンの普及率は1000人当たり17台であった。 ミシンの需要がにわかに高まったのは敗戦直後である。 戦争により衣類は底をついた。みんな着る物が不足していた。 一方、戦争中は工場での労働から、空襲、買出しと休む暇なく、働きやすい衣服しか着られなかった。 政府から標準服とされたもんぺは東北地方の労働着が基本となっていたので、ズボン形式で働きやすく防寒にもなっていた。 これを着たことで活動的な衣服に目覚めた女たちは、戦争が終わっても和服には戻れなかった。 しかし、もんぺではやぼったいので、女たちは洋服に移行していったのである。 当時は和裁は誰でもできたが洋裁はできる人が少なかった。ミシンも少なかった。 ミシンを持っていて多少でも洋裁のできる人のところには注文が殺到した。 手元にあったわずかの和服をほどいて子供の服にすれば一枚でも二枚になった。内職で縫ってくれたから値段も安かった。 仕立てるほうも家でできる内職は都合がよかった。 こうして洋裁をしたい人が増えると洋裁学校が生まれ、ミシンもどんどん製造され売れたのであった。 昭和30(1955)年代には都市では普及率75%に達し、それにともない洋服化は急速に進展していった。 だが、昭和50(1975)年代以降は既製服が普及し、洋裁店に注文する人も激減し、家庭洋裁をする人もあまりいなくなり、ミシンは家庭の必需品ではなくなった。 道具がくらしを変える。
昭和のくらし博物館は大田区南久が原にある。 東急池上線の久が原駅から歩いていくのがわかりやすいが 私は東急多摩川線の下丸子駅から歩いていった。
|