> 俵浩三:牧野植物図鑑の謎、平凡社新書017 > 牧野富太郎「日本植物図鑑」大正14年9月24日発行 > 村越三千男「大植物図鑑」大正14年9月25日発行 > の二つに注目して、背景にはこれらの本の出版社の競争があり > 著者どうしもライバルであったろうと推定している。
村越三千男は旧制中学校で植物学と絵画を教えていた。
はじめは二人は協力関係にあった。 明治39年6月から毎月刊行された「普通植物図譜」は 牧野富太郎校訂・村越三千男写生図・高柳悦三郎編集(東京博物学研究会・博物図譜発行所)であった。
村越三千男が主宰する東京博物学研究会は、「普通植物図譜」が好成績をあげたので気をよくし 「野外植物図譜」をはじめ数冊の本を出した。 そして「植物図鑑」を出したのだった。 この「植物図鑑」の初期の版には「校訂者・牧野富太郎、編者・東京博物学研究会、右代表・村越三千男」となっていたのが、後期の版になると「右代表・村越三千男」の部分がなくなっていた。 ここには専門家としての牧野富太郎の意志が反映していたのではないかと著者は推定する。出版社も牧野富太郎の発言は無視できないものになっていったろうから。
最初は仲よく図鑑の仕事に協力しあっていた二人だったが、二人とも自尊心も強く相手のあら探しをするようになってライバル関係になっていったらしい。 村越三千男著「植物大図鑑」には松村任三東大名誉教授など三人の博士が序文を書いている。これらの三人の博士は、牧野富太郎が著書などで批判していた学者であった。 つまり、牧野富太郎と村越三千男の対立は応援団がついていたようなのである。
互いにあからさまには非難しないが、間接的に相手を酷評することがあった二人であったが、 昭和30年になって村越三千男原著、牧野富太郎補筆改訂「原色植物大図鑑」が刊行された。 これは昭和15年刊行の村越三千男著「内外植物原色大図鑑」の改訂版に相当するものであるが、朝日賞、日本学士院会員、東京都名誉都民、高知県佐川町名誉町民など功成り名を遂げた牧野富太郎にしてみれば、決定的に差のついた村越三千男の図鑑の改訂版を出すことに対して大らかに対応できる気持ちになったのであろう(村越は昭和23年に亡くなっている)。
この本の著者は千葉大学園芸学部卒業で北海道の短大教授(実はこの短大からの編入生を何人か受け入れ指導してきました)であるが 牧野富太郎と村越三千男の確執についての推論を二人の植物学者(東大と都立大の名誉教授)に問い合わせると、研究者牧野富太郎に対して村越三千男は学者ではない単なるアマチュアだから、格が違うと言われてしまう。 しかし、牧野富太郎は村越三千男を批判したであろうという説には反対しなかった。 多くの植物図鑑を作り、それらは好評であって、世に広く啓蒙活動につとめた村越三千男の業績はそれなりに評価されるべきであろう。
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