さようなら寅さん フーテンの寅さんへの手紙 「男はつらいよ」愛好会編
何人かの人が、寅さんシリーズについて書いてある。
帝釈天の参詣の道に高木屋という店が向かい合って二軒ある。 山田洋次監督と知り合いの作家が高砂にいて、その作家が監督を連れて帝釈天参詣の折に高木屋に来た。 それから、寅さんシリーズの店のモデルとして撮影に使われたらしい。 そのとき山田監督が座ったのは、参道から入って右側の店であると高木屋女将石川光子がこの本に書いている。 だから、帝釈天に向かって右側の店に映画の撮影場面の写真などが張ってある。 最初は店内で撮影していたが、松竹で撮影用のセットをつくり、そこで撮影するようになったらしい。 映画に出るようになってから帝釈天の参詣者が増えた。以前は年配者が多かったのに、寅さんシリーズが続くと、団体客だけでなく、家族連れや若いカップルまで来るようになっちた。
毎年お盆と暮れに撮影にやってくる。 「おかあさん、今年は夏に来るよ」そんな声をかけてくれる渥美清は、実の息子よりいろんな話をしてくれたという。 寅さんに食べさせたくて、漬物を漬けたり、春はタケノコご飯、秋は松茸ご飯を炊いて 寅さんとの付き合いを27年間も続けた高木屋の女将。 寅さんはまさに家族であったろう。
映画の場面と実際の場面はちがうということに気がついた司悠司(作家) 電車で行くなら、京成柴又駅を出て、帝釈天参道に向かう。奥の題経寺(帝釈天)、そのうしろに江戸川の土手があり矢切の渡しがある。 しかし、映画の場面では、寅さんが柴又と妹さくらの夢を見る。それから帰りたくなった寅さんは帰ってくる。 江戸川の土手をぶらぶら歩いてから、「とらや」の人たちが寅さんの噂をしているところに姿を現す。 現実の地図では、柴又の駅から帝釈天参道まで歩いてきて、それから先を歩いていけば江戸川の土手に出るのに 映画では、寅さんはいつもわざわざ遠回りをして土手に回ってから参詣道の「とらや」に帰ってくる。
「とらや」の店のモデルになった「高木屋」についても、現実の店と映画の場面では違うことに、司悠司は気づいて指摘している。 現実の地図では、柴又駅から歩いて参道を進むと「とらや」のモデルになったという「高木屋」がある。 参道の左右にその大きな店はある。そこを突き抜けてしばらくいくと、右側に食堂「とらや」がある。 食堂「とらや」はもともとは「柴又屋」であったが、柴又に「とらや」がないとお客さんが納得しないから、いつの間にか「とらや」になったという。 映画の中の記憶では、「とらや」を出て右に行くと柴又の駅であり、左に行くと題経寺である。 「とらや」の正面には「江戸屋」というせんべい屋がある。 寅さんはいつでも「とらや」の右側からトランクを下げてぶらぶらやって来て、お寺に行くときは左側に姿を消す。 ということは、映画の「とらや」は、参道に向かって左側にあるはずなのだが、現実の柴又の地図では「とらや」は右側にしかなく、高木屋は両側にある。 きわめて内ネタなのだが、高木屋を見に行ってBBSに報告したとき、タンマさんは映画の撮影は参道の向かって左側の店であると指摘した。しかし、私は知人に右側の店に案内され、店内では、この店で撮影したという当時の写真を飾ってあった。映画の場面からすれば、「とらや」は「高木屋」の左側の店に相当するのであろう。タンマさんの指摘のとおり。
映画の中の「葛飾柴又」は、スクリーンの中にしか存在しない虚構の「柴又」なのだということが実感として納得できるのだ。
寅さんの妹の名前はなぜ「さくら」なのか。 香具師(やし)の妹が「さくら」というのはシャレなのだろうか。
ある時、四国のロケで、おじいさんやおばあさんに手を合わせられたことがあった。 そうして「あなたにお会いすることが夢でした」などと言われると、渥美清は冷や汗が出たそうだ。 「あなたのうしろには後光がさしています」なんて言う人もいて、渥美清は閉口する。 「ある意味で、嘘をついて、だましているわけでしょう」自分が詐欺師にでもなったみたいな気がして、渥美清は、いつバレやしないかとヒヤヒヤしていたのだそうだ。 真面目そうな中年男性が目に涙を浮かべながら「会いたかった」と手を握ってくることもある。 そんな時「大丈夫か、しっかりしろよ」と手を握りなおす渥美清は、演技をしている自分に気がつき後ろめたい気持ちになるという。 「おれがついているから頑張れ、なんて恥ずかしくなく言える奴が、新興宗教の教祖になって金を儲けられるんだろうな、と思うね。」 こうして人のいるところを歩けば演技を続けるしかない渥美清は、プライバシーを隠して、人々の夢を演じ続けなければならなかった。
渥美清の演技で強く印象に残っているのが 「キネマの天地」の女優を目指す娘の父親役を演じたとき。 喜劇役者は悲劇も演じられるという話があるが まさにそれで、渥美清の場面だけが脳裏から離れないぐらい 「うー、すごい」とうなった。 映画の主役に抜擢された女優を目指す娘が(監督から無理な注文を言われ) 演技の壁にぶち当たり悩んでいる時の説教といったら もしかしたら渥美清自身の役者魂そのものかもしれないという気迫が感じられた。 この山田洋次監督「キネマの天地」は私も見たが、在りし日の蒲田撮影所の伝説的映画監督の数名を 個性的に描いて、見る人が見れば、あああれは○○監督がモデルだと思うだろう。 渥美清演ずる父親は、自分はしがない役者であったが、娘には女優の心がけるべき ポイントを的確に父親しかいえないような言葉で言うものだから 娘はその言葉がヒントとなり翌日監督が驚くほどの名演技をすることになる。 しかし、ポロッと言わなくてもよい娘の出生の秘密を漏らして、あとで妻の倍賞千恵子から 少しだけやりこめられる場面だった。 でも、あれだけ肩の力を抜いて、娘にアドバイスできる父親がいたら、それはすばらい父親だろう。 この「キネマの天地」の渥美清の演技を別の本でも褒めていたのを思い出す。
|