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[No.15635] 石ノ森章太郎:絆 投稿者:男爵  投稿日:2010/08/17(Tue) 08:15
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石ノ森章太郎:絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ

マンガ家石ノ森章太郎は宮城県石森生まれ。
高校生の時にマンガ家となる。最初の名前は石森章太郎だった。
当時あった漫画少年という雑誌に投稿していた。
そこで入賞を繰り返すうちに、連載してみないかという誘いを受ける。
こうして世に出たのが伝説的な「二級天使」だった。
作者はここで、いろいろな表現方法に挑戦している。
 第一話はフランク・ケアとキャプラ嬢の人情話
 第二話ではリアルな劇画調
 第三話では少女マンガっぽいメルヘン調
 第四話はSFである。
毎回モチーフによってテクニックを変えて描いた。
作者は、漫画少年という雑誌を借りて、いろんな方法論や表現の可能性を追求した。
どうして、新人にそんなことをさせることができたのかというと
漫画少年は経営が苦しくなって、原稿料の都合から高校生の作者に声がかかってきたらしい。

こうして高校生の時に連載漫画が載ったのだが、その雑誌社は倒産してしまった。
漫画作家の活動としては一年間だった。
しかし、ここまでくると漫画から手を引けなかった。
親の期待を裏切り、(大学に入らず)単身上京して、本格的マンガ家をめざして苦しい新人時代を送る。

だが、石森章太郎は幸運であった。
マンガ家が集まるトキワ荘に入り、毎日漫画づけの生活を送ったのだから。
手塚治虫はもうトキワ荘にはいなかったが、ときどきやってきて仕事を手伝ってくれるマンガ家に声をかけた。
トキワ荘の実質的なリーダーは寺田ヒロオだった。
雑誌社もトキワ荘に通ってきた。寺田ヒロオの原稿を受け取りに来るときに
急に都合のつかなくなったマンガ家の代わりに穴埋めをする原稿の依頼もあった。
そんなことから赤塚不二夫もマンガ家としてデビューする。

若いマンガ家たちはしかし、若い者にありがちな激論はしなかった。
つかず離れずの大人のつきあいができた仲間だった。
彼らは互いの作品の批評会をしなかった。新しい漫画を模索しようと会まで作ったが、互いの作品を批評しあうことはしなかった。
「この絵の感じはいいじゃないの」ぐらいは言い合うが、ダメな部分はけなさなかった。
自分の欠点は自分がいちばんわかっていた。だから、知っているから言うことはないと暗黙の了解があった。互いに傷つけあっても意味がない。
作品に限らず性格でも、本人がすでにわかっている欠点をあえて他人が指摘するということは、ただ傷つけあうだけで何も産み出さない。
そのかわり、みんなで向上しようと思っていた。誰が言い出したのか「やはりデッサンをもう少しやらなきゃいけないな」ということになり、デッサンをしたり、スケッチ旅行に行こうよということになった。
たとえば具体的な例として、行き詰まった赤塚不二夫が寺田ヒロオに相談したら、自分だったら、この作品に詰め込んであるアイデアを三本にして描くと言われた。赤塚は欲張りすぎて多くのアイデアを入れすぎていたのだった。このアドバイスで目覚めた赤塚は以後、良い作品を続けて描けるようになった。
互いにあら探しせず、良い点を認めあって向上してしていく関係は、たまにしか訪れないが精神的な指導者であった手塚治虫とリーダー格の寺田ヒロオの影響が大きかったのだろうと、石ノ森章太郎も書いている。

下積み世界がなかった石ノ森章太郎のことを、運のいいやつだと評価する、さいとうたかは貸本漫画からスタートして下積みが長かった。
石ノ森章太郎とさいとうたかをは、「ビッグコミック」創刊からずっと三十年間一度も連載を休んだことがなかった。

さいごにコワイ話を一つ。
多くの作品を書いてきた作者は、あまりにも作品のイメージを投影されすぎて困った経験がある。
見知らぬ若い女性が突然訪ねてきて
「どうしても先生に直接会って話さないといけないことがあるんです」
取り次いだ事務所の人間がなんとかなだめてお引き取りいただこうとしたらしいのだが、ひどく思い詰めた顔つきで家の前にずっとたたずんでいるという。
うーん、せっかく訪ねてきてくれたんだから、むげに追い返すのもかわいそう。
でも、その様子じゃ、また例の話になるんだろうなぁ...
「私のおなかの中に、先生の赤ちゃんがいるんです」
...やっぱり。まったく見知らぬ女性が、なぜかこういう物騒な告白とともに訪ねてくることが、ときたまある。
覚えがあるなら思い出したいくらい、それこそ線の細い華奢なお嬢さんが不思議と多いのだ。
先方は固い確信と決意のもとにおいでになっているわけで、いくら会って話をしてもかみあうはずがない。
よりにもよってどうしてこんなズングリムックリのオジサンを選んだんだろうと思うのだが、どうも恋い焦がれてやまない相手というのは目の前にいる作者本人ではなく、作者の作品のキャラクターらしいのだ。
紙の上の、あるいは映像のなかのイメージを、作者にそのまま投影させているわけなのだ。
 芸能人、俳優や女優、歌手などにつきまとうファンの異常とも思える心理なのだろうか。思い込みはコワイ。