十数年前に「国際ユーモア学会」という学会ができ、毎年1回研究発表会を開催している。学会誌も発刊され、文学、言語学、心理学や哲学、社会学、人類学、生理学などの論文も発表されている。 そう説明する著者の森下伸也は大学教授。
笑いとは何か。 それを勉強するために読んだ本であるが 例によって以下にメモする。
笑いはひとつの身体活動である。(デカルト) 笑いは善である。(スピノザ) 笑いは健康によい。(カント) およそカントの笑ったことなど想像できないが。そう言ったとしたらカントは偉い。 人間だけが笑う動物だ。 犬や猫や馬は笑わない? 猿など笑いそうだけど。
愉快だから笑うのではなく、笑うから愉快になる。 悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ、という言葉がある。それの応用か対応例なのだろう。 悲しいから泣くという現象はある。そして、泣くとまた悲しくなる。 楽しいから笑う。笑うとまた楽しくなる。幸福のスパイラル。 悲しいときに泣かないで、悲劇的な傾向をいったんストップさせ、状態を切り替えるため、わざと笑ったりユーモアを持ってくるのは人間の知恵。
トリックスター 多くの民俗社会では、神話や伝説に、ずるがしこく、怠惰で、欲深く、極端に自己中心的で、とんでもないイタズラをやらかしながら、それでもどこか間がぬけていて、なぜかみんなに愛されるという一風変わった道化的主人公がしばしば登場する。 トリックスターはそのような人物である。 ドイツ民話の人気者ティル・オイレンシュピーゲルやスラップスティック映画の王者マルクス・プラザーズはその例である。 *スラップスティックとは、直訳すると叩く(スラップ)棒(スティック)。アメリカの道化芝居で相手をひっぱたくときに使われた、先がふたつに割れた棒のこと。(音は大きいがあまり痛くない、日本のハリセンみたいなもの) これが転じて舞台喜劇の芸を指すようになり、動きの多いコメディ映画をそう呼ぶようになった。日本ではよくドタバタ喜劇と訳される。
トリックスターが愛されてきた理由は何か。 それは、彼らがみずからの欲望のおもむくままにやりたい放題のことをする自然児であり、やらなければならないことをやらず、やってはならないことばかりする反抗児だということであろう。 彼らは自然と無秩序の象徴的存在であり、それゆえ社会のさまざまな制約のもとで生きている人間にとって、心の奥底にある根源的自由への願望を満たしてくれる愉快な存在として、憧憬の対象となるのだ。 その意味で彼らは、根源的自由への願望という、社会にとってもっとも危険な破壊的欲望を、代償的に満足させる存在として機能していると言ってよいだろう。 だがそれだけではない。彼らは結局、思いどおりにならず失敗する。その失敗にわれわれは「そんな目にあってもしかたないな」と思い、納得しつつ笑う。その瞬間われわれは、根源的自由の対極をなす社会秩序や社会規範の方向へシフトしている。つまり、トリックスター説話の第二の社会秩序維持機能である。 この他にも、彼らはひとたび逸脱行為によって社会をカオス状態におとしいれたのち、新しい秩序あるいは新しい文化をもたらすという効果が期待される。
さらに 宮廷道化師や愚者の饗宴とカーニバルについてもふれているが詳しく述べることはしません。 ブリューゲルの「謝肉祭と四旬節の喧騒」に見られるように、冷静に観察すると はめのはずした狂気、陽気さ、猥雑さ、哄笑、エネルギーなどが感じられるが、その背景にある必然性といったものがあるのだろう。
笑いとは何か、その回答のひとつがこの本であるが、あたっているような、しかし、これがすべてでないような、あるいはもっと端的に本質をあらわす言葉がないのか等の感想をもった。
|