日野原重明と湯川れい子が、それぞれ音楽の効能を述べている。
もし、言葉を使うことだけで、人と人の心がコミュニケーションできるならば、音楽などはなかったし、音楽が生まれる必要もなかったでしょう。 (米国でミュージック・セラピーを最初に提唱したガストンの言葉)
脳卒中になってから二年間失語症になってしまった患者に対して 日野原先生は主治医に 「音楽療法のテストだから、難しいと思うけど、患者さんを貸してください」と言った。 主治医は 「日野原先生、二年間言葉が出ないんですよ。今さら」と言ったが 「でもまあ」といって音楽療法をしたのだった。 どうやらその患者はカラオケが好きだったようで、奥さんに 「何の曲が好きでしたか? 得意な曲はありましたか?」と尋ねて、その音楽をかけた。 しばらくすると、曲に乗って 「アー」と声が出てきた。さらにもうしばらくすると、歌に言葉が乗ってきた。 日野原先生も驚いて 「あー、歌は歌えるね」と言ってあげて、部屋に帰ったのだが、なんと部屋に入ってきた看護婦さんに 「ありがとう」「おはよう」と言うではないか。言葉が二年ぶりに出たのだった。 まさに奇跡的なできごとだった。
もう一つの例として 日野原先生と高校の同級生だった患者がいる。日野原先生の名前も、3+5もわからない痴呆の患者であるが、驚くことには母校である第三高等学校の寮歌を何番もズーッと歌いだしたのだ。 「時間がないから最後はどうなの?」と言うと、十何節もある歌の最後をしっかりと歌ったという。 日野原先生は寮生でなかったから、長い寮歌を覚えていなかったが、痴呆の人が、日野原先生の歌えないような歌を曲と一緒に歌うのであった。 痴呆の人だからといって、何でもかんでも痴呆なわけではないのである。
子供は生まれてから十日間くらい目は見えない。 でも生まれてすぐでも手を叩くとビックリする。 つまり、胎児のときから聴覚は働いているのである。 お母さんの心臓の音はいちばんにキャッチしているのだ。 だから生まれた子供がぐずついたときに、お母さんの心臓の音を録音したものを聞かせると静かになるという事実がある。 それは胎児のときに聞きなれたアットホームな環境だからであろう。こういうふうに音というのは胎児のときからすでに聞こえているのである。
胎児に聴かせる音楽として、モーツァルトが最適といわれる所以は、モーツァゥルトの音楽が、人間の声の領域を主に使っていることである。 だから彼の音楽は音楽療法にも好んで適用されるのだろう。 こういうわけで、人間の声は音楽と同じで、有効なコミュニケーション手段になるのだ。
湯川れい子はこのあと 母親が子どもが帰ってきたとき無意識に1オクターブ高い声で「おかえりなさい」と言う例をあげて、夫が帰ってきた時も1オクターブ高い声で「おかえりなさい」と声をかけると家庭が明るくなると推奨している。 同じように早朝に彼女のところに、子ども時代からの親しい友達が電話をかけてきたとき、寝たままの姿勢で低い声で応対すると、相手は「何か具合でも悪いの?」と言うので、それから誰から何時に電話がかかってきても、起き上がって人と対話する姿勢で1オクターブ高い声で応対するという。 かけたほうが「こんな時間にすみません」と恐縮すると 「いえ、まだ起きて原稿書いていたところです」と言うのだそうである。 そうすると、相手も話しやすくなるからである。 もっとも、間違い電話とか、セールスの電話などには、そう愛想よくしてられないが。
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