なぜ同胞を殺したのか ポル・ポト 墜ちたユートピアの夢 井上恭介・藤下超 NHK出版 2001
ポル・ポト(サロト・サル)はパリに留学し共産主義を学んだはずだったが、その理論は空想的だったようだ。 計画性もなく具体性にも乏しい政策、思いつきで人々を強制移動させ強制労働させ、反対者は命を奪って口を封じたようだ。
自分に逆らうものはすべて殺したポル・ポト、ふりかえれば、スターリンみたいな面があったということ、毛沢東にもそんな面があった。 ポル・ポトにはスターリンや毛沢東のような光の部分が少ないから、暗い面ばかり目立ってしまう。
コンポントム州のイスラム教徒チャム族はポル・ポトにより強制移住をさせられた上、豚を無理矢理食べさせられた。食べなければ殺された。
フン・センがポル・ポトからの粛清を避けてベトナムに逃げ込み、ベトナムはフン・センたちを助けてカンボジア侵攻を計画する。 そうなると ベトナムを支援するソ連に対抗するため、中国はポル・ポトを支援する。
政権奪取後 ポル・ポトはシアヌークを幽閉し、一方中国はポル・ポト政権に経済顧問を派遣し「パトロン」として振る舞いながら、アメリカとの国交回復という歴史的大転換を画策していた。
アメリカは人権重視を掲げるクリントン政権下でポル・ポト派幹部たちの責任追及に執念を見せ始めていた。 旧ユーゴでの民族浄化とルワンダでの虐殺をめぐって国連主導の国際法廷が設置され、それなりの成果を上げようとしていた。 ポル・ポト死後に、アメリカはポル・ポト政権時代の大量虐殺に係わった幹部を沙漠国際法廷設置を国連安全保障理事会にに提出した。 中国は、ポル・ポト政権への中国の関与が国際法廷で明らかにされるのを怖れて反対した。
大国の都合で振り回され続けてきた小国カンボジアの歴史。
読んでもさっぱりわからない本だった。 内ゲバ、ポルポトの狂気、ベトナムとの昔からの対立、タイとの関係も原因のひとつ。
1863 カンボジアがフランス保護領 1940 日本軍北部仏領インドシナ進駐 1941 日本軍カンボジアを含む南部仏領インドシナ進駐 1945 3.9 日本インドシナ駐留フランス軍を武装解除 3.12 シアヌーク国王カンボジア独立宣言 8.15 日本降伏 10 フランス軍カンボジア再植民地化 1946 フランス軍とベトミン武力衝突 第一次インドシナ戦争勃発 1949 サロト・サル パリ留学 1953 シアヌーク カンボジア完全独立宣言 1954 第一次インドシナ戦争終結 1963 サロト・サルらクメール・ルージュ幹部プノンペン脱出 ベトナム国境を拠点に地下活動入る 1964 アメリカ ベトナム戦争に直接介入 1968 クメール・ルージュが武装闘争開始 1969 米軍カンボジア領内の秘密爆撃開始 1970 3.18 ノン・ノルによるクーデター シアヌーク国家元首から追放 3.23 シアヌーク 民族統一先生結成 カンボジア内戦勃発 1973 アメリカと北ベトナムがパリ和平協定に調印 ベトナム軍カンボジアから撤退始まる 1975 4.17 クメール・ルージュ プノンペン制圧 4.24 ポル・ポトらプノンペンで開放記念式典開催 4.30 サイゴン陥落 ベトナム戦争終結 10 米増産のためプノンペン周辺から北西部へ新人民強制移動 1976 4.14 ポル・ポト首相就任 シアヌーク国家元首解任 キュー・サムバン国家元首に 1976 9.20 ポル・ポト首相辞任 ネイ・サランら古参有力幹部の粛清始まる 12.20 ポル・ポト党内の敵の粛清支持 1977 6.20 フン・セン粛清を避けベトナムに逃亡 12 ベトナム軍戦車舞台が警告のためカンボジア東部に侵入 1978 8.6 東部の住民数十万人北西部に強制移動 10 北西部に移動させられた東部住民の組織的大量虐殺始まる 11.3 ベトナム ソ連との友好協力条約締結 12.15 米中国交正常化発表 1993 カンボジア王国発足 シアヌーク国王就任 1997 6.18 ポル・ポト 派内で失脚 タ・モクに逮捕される 7.6 フン・セン派部隊がプノンペン制圧 1998 4.15 ポル・ポト死亡 11.30 フン・セン首相就任 2000 カンボジアと国連で特別法廷設置で合意
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