著者の父親は 日本橋千疋屋総本店の三代目店主大島代次カの三男の大島亀之助だった。 大島亀之助は 昭和5(1930)年12月から11(1936)年5月まで 銀座の文具店伊東屋の地下一階で 「千疋屋フルーツパーラー」を経営していた。 その店の芳名帳にサインした各人について紹介した本である。
ここでは 例によって 数名ほど紹介します。
田中絹代 日本映画史に輝く昭和期最高の女優 映画界に入った彼女は、池田義信監督の「真珠夫人」で、あこがれの栗島すみ子の妹役に抜擢されスターへの足がかりをつかむ。 清水監督から求婚され、母の反対を押し切って、池田義信・栗島すみ子夫妻の媒酌で結婚する。 一八歳の絹代は若かったせいか、結婚生活は二年で解消する。彼女にはその後も映画人との噂は絶えなかったが、生涯独身を通した。 溝口健二監督の指導で「演技女優」に開眼し、溝口監督の「西鶴一代女」でヴェネツィア国際映画祭の監督賞受賞で溝口健二の名を世界に知らしめ 翌年の溝口・田中コンビの「雨月物語」はベニス国際映画祭で、サンマルコ銀獅子賞第一席を獲得する(金獅子賞の該当作なし)。 溝口には反対されるが、田中絹代は女流映画監督第一号となり六作品を残す。 熊井啓監督の「サンダカン八番娼館・望郷」でベルリン映画祭女優演技賞をはじめ数々の賞を受賞する。
エレオノラ・ニグーザ ラグーザお玉 イタリア画壇で活躍した日本女性 芸大の前身の美術学校の彫刻科教授としてイタリアから来日したラグーザとめぐりあい やがてラグーザ教授に嫁して、彼の地で有名となる。 木村毅により発表された小説「ラグーザお玉」により、一挙に世間に知れ渡り、それが縁で52年ぷりに帰国した。 昭和8(1933)年10月に姪の清原初枝とともに帰国した玉は 実家の清原家の家族たちや知人たちと再会する。 その年の11月13日から19日まで、銀座伊東屋で「ラグーザお玉展覧会」が開催され 連日大盛況で、八十数点の作品はほとんど売約済みとなった。 この展覧会の開催中に 「ラグーザお玉」の著者木村毅と玉は 伊東屋地下の千疋屋フルーツパーラーに来店し、二人のサインを残している。
木村毅は伝記「クーデンホーフ光子」も著して、これも読む価値のある本である。 クーデンホーフ伯爵としてオーストリアに渡り、激動の時代を生き抜き ウィーン社交界の花形となったが、32歳の時夫に先立たれるも七人の子どもを立派に育てる。 次男のリヒァルト・クーデンホーフはEU実現の基礎を築いた人物として知られる。 ウィーンで彼女の世話になった日本人は多い。
長谷川伸 大衆文壇の重鎮、演劇界にも多大な貢献 父は放蕩をはじめて他の女性を迎えたので、彼の実母は泣く泣く長谷川家を離れ実家に帰った。 父は仕事に身を入れず家業は悪化の一途をたどり、ついに破産して一家離散となり、彼は小学校二年で退学し、いろんなところで働いて、苦労の末新聞記者となる。 彼の「股旅物」はやくざを美化した低級なものと識者たちからしばしば非難されたが 彼は義理・人情・侠気といった下層階級の道義感を力強く描き、民衆の心をとらえたのであった。 従来の純文学ではカバーできない領域を、長谷川伸が切り開いたといえよう。 作家として長谷川伸がまだ売れていないころ、政江という妻がいた。政江には「瞼の父」があり、六歳の時に逐われて、生まれ育った木曽を母とともに去っている。 それから十二年たって、彼女が父の夢を三晩も続けて見た後、六歳の時生き別れた父が 日本橋芳町で芸者をしていた娘政江を捜して会いに来た。 会った最初は抱き合って泣いたのだが、歳月とともに父は娘からいつとはなく遠ざかってしまった。 この父娘の再会体験が、彼の代表作「瞼の母」にとりこまれている。 しかし、彼女が死んで六年後に戯曲「瞼の母」ができたので、彼女の生前に見せたかったと悔いていたという。 彼は別れた母とは四十七年ぶりに再会し、弟妹たちも得て喜びを味わった。 長谷川伸は人情面に厚く、後輩たちの面倒をよくみた。彼を師とあおぐ作家たちは、山岡荘八、村上元三、山手樹一郎、戸川幸夫、池波正太郎、平岩弓枝などがいる。
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