山本さとし: 旅の楽しさ 講談社現代新書536 1979
旅とは何か この本の著者は、旅とは日常からの離脱ととらえている。 我々は日頃から、家庭や会社や地域社会や趣味の同好会など、いろいろな組織に属しているが いったんこの所属する組織から離れて、その制約から自由となり、もちろん恩恵も一時的にすてて (新しい土地で二日でも三日でも)「世間を忘れて旅に出かける」のはいいものだと述べている。
それは命の洗濯になるかもしれないし、新しい発見が得られるかもしれないし、(その反対に)期待を裏切られトラブルに巻き込まれることもある。 だが、それらの体験はその後の人生にとって何かしら役に立つものである。 旅に出たため、自分のいたところの良い面と悪い面を発見することもある。旅に出ないと気がつかなかったことでもある。
この著者が 過密のスケジュールを立てて張り切って旅に出て、数日もすると疲れ果てて とうとう寝坊して予定のバスに乗り遅れたという女性の話を聞いて それはただ目的地につくことをのみ問題にして、たくさん見ることになるかもしれないが、しょせんは土地移動を重ねただけで無意味なことだと断定している。 昔、フランクフルトのゲーテの家で、日本人の観光団体が見学に来ていて、あるお年寄りは疲れ果てて何も見ないで、部屋のソファーにぐったり座ったきりなのを見たことがある。そして、ゲーテの家の受付のドイツ人から「日本人はどうしてこう毎日ここに来るんだろうか」と聞かれたものだった。ゲーテの家を見たくて来た日本人ばかりではない印象だったからではないか。何のために毎日大勢の日本人は来るのか、と疑問に思ったドイツ人というところか。
著者は三木清の人生ノートの中の一節を紹介している。 旅の意義とはその過程にあるのであって、ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の真の面白さを知らないものだというのである。 過程が主要であるから、途中に注意している者は必ず何か新しいこと、思いがけないことに出会うものである。 旅において真に自由な人は、人生において真に自由な人であるとも述べている。
また著者は、歩く旅の楽しさを強調するため 新幹線や高速バスや飛行機などを使って移動する旅行は あわただしく旅の風情がないという言い方をしている。
それはそうだが、現代の文明の利器を使えばこそ 来年四月からは、新幹線で青森から鹿児島まで乗り継いでいけるので 遠いところも旅行計画に組み入れることができるわけである。 目的地に近いところで新幹線を降りて、各駅停車のローカル線の乗るもよし、地域バスほ利用しても、歩いて村の雰囲気を味わうのもよいと思う。 それを自宅からすべて歩いていけというのは、(弥次喜多や芭蕉ではあるましい)時間ばかりかかって賢い方法とは思われない。
またグルメブームに対して批判的で、どこの旅館ででも出てくる刺身や天ぷらや揚げ物などを食べるよりも、その土地の人が日常食べているものを食べるのがよいと書いているが これはそういうきっかけがあって運良く土地の人と仲良くなって、そういう食べ物を食べられたら幸運である。 その土地の人が気楽に食べられる食堂を紹介してもらえれば、そういう店で食べるのがよいのだが。それを土地の人に聞いたり、自分で歩いて探すためには少々時間をかけないといけない。土地の人と一緒にリーズナブルな値段で旬のものを食べられたら一番良い。
この著者もカメラを携帯してしばしば気に入った風景を写したのであるが あるとき気がついた。 それはカメラで写した写真は、いくら広角レンズを使ったとしても人間の目で見た広い景色を再現できないということである。 つまり、写真は一部のトリミングになるから、いくらでも強調した作為的な写真がつくられるのである。(塀の破れたところや壁の落書きなど写さなくてよい。実物より良い写真になる) 旅館のパンフレットやレストランの案内写真でも、一部分だけの表現になるので 写真で見たとおりを期待していくとたいてい裏切られる。 写真とはそういうものだから、その機能を強調してつかえばよい。だから、写真はすべてではない。写真で表現できない真実のすばらしさは別にある。
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