岩波新書343
親鸞の末裔ではあったが、母親はいやしい身分の女だった。 (二十歳の父はまだ部屋住みで正式な妻はもてず本願寺で働いていた女と親しくなって生まれたのが蓮如である) やがて父は本願寺の当主となり、正妻をむかえることになる。相手の女性は室町将軍につかえるしかるべき家の娘だった。 蓮如の母は六歳の蓮如を残していずこかに去っていった。そして正妻には息子が生まれ、継母からうとまれる蓮如。
四十すぎまで部屋住みだった蓮如、庶子なので未来はない。彼も若き日の父のように部屋住みの実で妻をとり、子だくさんの貧しい生活を送る。 やがて父が亡くなり、人生の大逆転で、庶子の蓮如が本願寺の跡継ぎになってしまう。 怒ったのは義母如円と嫡子応玄、寺を去るしかなかったが 悔しさのあまり蔵の中の寺の財産をことごとく持ち去って、あとには味噌桶ひとつと小銭が転がっていただけであった。
時代は飢饉があり応仁の乱が間もなくやってくるという民衆の危機が続いていた。 本願寺は貧しいみすぼらしい寺だったが、同じ親鸞の教えを説きながら経済的に繁盛していた他の寺がいくつもあった。 そういう寺は布施を積めば極楽往生ができるとして、名帳や絵系図などが発案されていた。つまり寺の権限で帳簿に名前をのせてもらったり肖像画を描いてもらうと極楽往生の予約ができるようなものである。当然高い登録料が必要である。
一方では他の寺の繁盛を見ながら、親鸞直系の寺であるという意識だけは強く、貧乏ながら権威主義は捨てられなかった本願寺 そして、その本願寺は比叡山延暦寺の支配下におかれていた。具体的には親鸞の真宗とも天台宗ともつかない、混合した色彩をもっていた。
ここから、どのようにして蓮如が本願寺の発展をしていったか それはこの本のお楽しみ。
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この本に書かれている五木寛之の解説では 我が国の知識人、学者や文化人は蓮如には批判的である。 それと対照的に、実業家や政治家や大衆的な仕事をする人々の間には、蓮如を高く評価する傾向があるという。 親鸞は哲学的、宗教的 蓮如は情熱家、事業家というところでしょうか。
五木寛之は若い時、思想家の羽仁五郎と大激論をしたことがある。 軍国主義の時代にも自由な近代精神を捨てなかったルネサンス的知識人の羽仁五郎は、日本的な歌謡曲のたぐいが大嫌いだった。 「美空ひばりなんて、きみ、あれは日本の恥だぜ」 ああいった湿った感傷性から自由にならない限り、日本人は市民として自立しえないのだ、という羽仁五郎に対して 五木寛之の考え方は正反対だった。いわゆる演歌調の歌謡曲の貧しさを近代の西欧音楽の構造をお手本にして批判するのは根本的にまちがっている。 ばかにされる演歌のマイナー・コードのなかにひそむアジア、アフリカ、イスラム世界との深いコレスポンデンス(対応)を、私たちは聴きとることを忘れているのではないか。 二十世紀末の世界の歴史は、決して理性のみによって動いてはいなかった。内線や民族紛争、独立運動、すべてが集団の古い記憶、そしてなまなましい情念によってリードされている。ソ連全体主義の解体は、民族と小国の情念のドラマであった。 人間の情念、怒り、悲しみ、血の記憶と、そこに注がれた大量の涙。そのような、いわば近代の理性が古いおくれたものとして軽蔑してきた情念によって、いま歴史がつくられつつある。それが現代である、というのが五木寛之の意見であった。
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