鈴木明:日本畸人伝 明治・七人の侍 光人社 2000
この本も本日図書館に返すので、簡単にメモ書きをしておく。
幕末に名を残した新撰組については、近藤勇や土方歳三などは小説やドラマにも取り上げられているが、彰義隊となるとその名前を知っている人も少なく、隊員の名はおろか隊長の名前さえほとんど知られていない。 彰義隊の関係者は密かに逃れ隠れるように暮らしていたし、彼らにかかわりあっては大変と、みんな知らぬふりをした。新撰組は会津藩主の家来だったこともあって、会津には墓もあるし、函館戦争で死んだ土方歳三は死ぬ場所を選んだということで、日本人の心に残っている。
佐久間貞一 彰義隊に参加した。敗残兵の佐久間は西へ向かって逃げとうとう天草まで落ちのびた。 世の中も落ち着いてくると、東京に戻ってきた佐久間は、明治12年にパリ万博のあと、出品した金の鯱を積んできたフランスの船が伊豆沖で座礁してしまったのを知って、金の鯱などの引き上げを計画する。 彼は天草の漁民の潜水技術を知っていたので、彼らに仕事を与えたのだった。政府の財政担当の大隈重信を知っていたのが幸いした。金の鯱は引き上げられ、船長の遺品も見つかったのでフランス政府に送ったところ感謝され、フランス政府と日本政府から佐久間は感謝状をもらった。 佐久間は秀英舎という大日本印刷の前身にあたる会社を興し、労働組合を奨励した。社員とその家族が潤えば社会経済も発展するし、意欲的な社員は会社をもりたてるからという彼の思想が背景にあった。
浮田和民 日本のキリスト教には三つのルーツがあると言われている。 クラーク博士による札幌バンド ヘボンになどによる横浜バンド 熊本の洋学校のジェーンズによる熊本バンド 熊本バンドの中から浮田和民が出てきた。 熊本洋学校が閉校になると、開校間もない同志社に転校し、同校で新島襄からの影響を受けた。 イェール大学に2年間留学し、同志社大学教授として政治学、国家学、憲法講義などを担当した。 それから東京専門学校(現早稲田大学)に移籍し、山田一郎、高田早苗、安部磯雄らと共に早稲田政治学の基礎を形成。また総合雑誌「太陽」の編集主幹として活躍した。
今村均 やはり熊本バンド出身の海老名弾正は後に同志社大学総長となるが、明治30年から本郷教会で演説をすることになった。集まった東京帝国大学の学生の中には吉野作造もいた。 明治38年ころ本郷教会で海老名弾正の演説にきき入っていた18歳の青年今村均は 陸軍士官学校、陸軍大学と進み、太平洋戦争末期にはインドネシア方面の最高司令官であった。 今村は日本が守備していたラバウルの要塞を難攻不落の地価に作り上げ、オーストラリアにいたマッカーサー軍の度重なる侵攻にもかかわらず、ついにここを守りきった。 今村は総司令官だったから、戦後に「インドネシアにおける戦争犯罪人」としてオランダ政府からオーストラリア政府に対して身柄の引渡し請求がされたが、オランダ政府、オーストラリア政府それぞれの内情、また終戦直後にはじまったインドネシア独立戦争のため、今村のオランダ引渡しが決定するのに三年近くの歳月がかかってしまった。 今村がラバウルからジャカルタの刑務所に送られたのは昭和23年5月だった。そこには、インドネシア独立戦争の結果捕虜となったインドネシア人が多く入っていて、彼らの何人かは今村に食べ物を持ってきて、日本時代に青年訓練隊に入っていたこと、イマムラ将軍に感謝していることなどを述べた。 今村が囚われているうちに、インドネシアのムルデカ(独立)運動は盛んになり、実は終戦後約三百人の日本軍将校がインドネシア兵として独立戦争に参加していたのであった。 インドネシアは独立に成功した結局、今村はインドネシアから巣鴨刑務所に移されることになったが、インドネシアに一人でも戦犯が残っているうちは自分は日本に帰らないといって、昭和28年に今村は日本に帰った。日本は2年前に講和条約を締結していた。、
-------------------- 井田制という言葉がある。 孟子が、田地を「井」の字に九等分し、真ん中の一つを「公」として それをとりかこむ八つの区画を「私」とし、公の部分を税金にあてればいい と考えた耕作のときの理想の形を述べた言葉である。・ しかし、すべての土地が井田制に適合するようにできているわけではない。 どんな理想的に見える土地でも、どこかでこの中に入ることのできない半端な部分が出てくる。 この土地を形容する文字として「畸」というあまり使われない文字ができた。 畸は、井田制の中に入ることのできなかった残りの土地であり、対照するものがない孤独な土地だが やはり世の中にはそういうものが必ず存在するものであり、よくよく見れば、時には妙に輝いて見えることもあるかも知れない。 著者はそういう「畸人」が好きなので、日ごろから畸人に関する資料を集めておいたので、出版社から何か出版をともちかけられて、この本を書いたという。
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