Toshichan こんにちは
> > > あとで、中山晋平の意見を聞いて「明けりゃダンサーの涙雨」に変えたという。 > > 中山晋平はよくこういうことをしたらしく、野口雨情も似たようなことをされている。
西條八十にしてみれば ジャズを踊ったり、リキュールを飲み交わした二人も、歓楽は一夜にして終わって翌朝は別離の涙であるという、刹那的享楽を風刺したつもりだったのだが 中山晋平から「彼女の、というところを、ダンサーのとさせて頂きたいので、そうすれば曲にはずみがついてごくいいんですが」という注文を受け入れた。 当時の中山晋平といえば、日本中の歌謡曲、民謡曲を一人で背負っているような存在で、この人の手にかかれば流行らぬものなしという人気だったから、意見に従うしかなかった。
だから、この歌の最初の原案の歌詞が変わってしまって、なぜダンサーが泣くのか、作詞者にもわからないものになってしまった。 しかし、この歌は流行りに流行って、当時のレコードで二十五万枚を売り出すに至った。 後年、「愛染かつら」のレコードは売上数百三十万枚といわれ、レコード界空前の売高と讃えられたが、その時代民間にあった蓄音機の台数を数えると、あるいは「東京行進曲」のほうが売上枚数において優っていると説く人もいた。
この歌詞については、東京をあまり退廃的に描いたのが不適当だと「江戸っ子の面汚し」という非難が相当あった。 「いっそ小田急で逃げましょか」と書かれた鉄道会社から最初は抗議されたそうだが、そのうち宣伝効果があったことを知った鉄道会社は、作詞者に無料の乗車券を送ったと別の本に書いてある。
これほど流行った「東京行進曲」に対して、ビクター会社は西條に三十円しか払わなかった。 まだ専属契約もできていなかったので印税なども支払わなかった。 楽譜などもむやみに出たようであるが、たいてい無断出版で、たったひとつビクター出版社という出版社が、三十円か五十円を届けてきた。 そのうち楽譜の無断出版が多いのに業を煮やした中山晋平が、弁護士と相談して法的手続きを取り全国の悪楽譜出版業者から相当の謝礼をはき出させたと話は聞いたが、中山から西條に仲間に入るよう話はなかったという。
当時はまだ作曲が主、歌詞が従という観念が音楽界にもレコード業者にもあったようである。 西條八十もだんだん大衆歌謡に身を入れるにつれ、歌詞にも作曲と同一価値権利を認めることを主張するようになっていったのである。 > 昔は、著作権なんかには、ごちゃごちゃ云わずのんびりしてたんですね。
いまは作詞が主で、作曲は従ですね。先に歌詞が作られ、それに対応して作曲されるというシステムが定着しています。古賀政男がこれが正しい手順だと言ったことを記憶しています。 たまには逆の手続きでできる歌もありますが。
|