保育社の本 石川啄木の一生を、生まれ育ったところから北海道そして終焉の地の東京まで 順々にならべて写真や地図もそえてうまくまとめている。 もうなくなった昔の建物の貴重な写真もたくさん載せている。
しかし ところどころ間違いがある。 明治35年啄木17歳の時に上京するが 野村胡堂から 「君は才に走りて真率の風を欠くと。また曰く着実の修養を要すと」(啄木日記) ときつい諫言を受ける。 この野村胡堂のことを、著者は、当時まだ早稲田大学の学生であったが のちには、読売新聞社の文芸記者となったと述べているが、これは間違いである。 正しくは、東京帝国大学法科大学に学んだが、学資が続かず退学し、「報知新聞」の記者になったのである。 野村胡堂たちは盛岡中学時代に問題教師のためにストライキをするが、犠牲者を出さないよう注意深い対応をしていた。 だが、下級生の啄木は、正式なメンバーでもないのに、このストライキのせいで自分の退学が実現することを希望したふしがあり、それを胡堂に見破られている。 そんなわけで、胡堂は啄木に不信感をいだいていたらしい。
啄木一家が部屋を借りていた東京本郷弓町の理髪店喜之床の位置も かねやすの近くで、春日通りに面しているのに 地図では春日通りから奥に入ったところに記載されている。 盛岡の地図でも 啄木歌碑のある天満宮の位置も道路が一本ずれている。 この分ではほかにも間違いがありそうであるが 気のついた点を書いておきました。
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