[掲示板へもどる]
一括表示

[No.15798] ぴんぴんころりでいきましょう 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/23(Thu) 08:53
[関連記事

女流講談師田辺鶴栄の本
自分の介護体験から、介護で苦しむ人たちの応援の本を書いた。

函館に生まれた一人娘の著者は東京で予備校に通う時、母親が札幌の大学病院の脳外科に入院したので札幌に行く。
脳腫瘍と診断されたのだが手術をすると脳動脈瘤だった。
それから四年間植物人間となった母親を世話した。
こんな娘時代をおくった人も珍しい。

母の生命保険が六十万円残ったので、それでインド旅行をする。
インドで両手両足のない人が乞食となって観光客の通り道に置かれている。
観光客からお布施をいただいたその人は、夜になると仲間が家に連れて帰る。
その人の顔は笑顔がさわやかで不幸そうな顔をしていないので、著者は驚く。
ある母子は、母が五歳くらいの子どもの首に縄をつけて猿回しのようにしている。
この子には両手がない。母親かわざと両手を切り落としたらしい。
いっぱい布施がもらえるように、ほかの乞食と差をつけるためそうしたらしい。

インドから帰ってどうしたかそれは書いていないが
ともかく著者は結婚して、ひとり娘の幼稚園の送り迎えをしているとき
義母が倒れてしまう。
なんで私だけ、こんなに、二回も下の世話しなきゃいけないんだとふてくされた著者。
しかし、悪く思われたくないから(人間ミエもある)、必死になって義母の世話をした。
春にせかして車いすで連れ出して近所の桜を見せた。一方的にまくしたてる著者に、義母はなかなか返事をしない。
ぽつりぽつりと「あのとき病院で死んでいたら、あんたにもみんなにも迷惑かけなかったね。生きていてすまなかったねぇ。おーう」と号泣きされる。
義母はだんだん口数が少なくなり食事も減っていく。

とうとう著者はヒステリーを起こしたのでした。
そこで、夫も義父も「そんなに大変だったのか、わからなかった」と反省した。
義母は夫の勝手さにあいそをつかし、嫁のこの著者に「あんな気持ちのない人と一緒の墓にだけは入りたくないから。私の遺言はそれだけだから頼むね」と言う。
著者のヒステリー以来、義父も病院の送り迎えや、痛い背中のマッサージなどするようになる。
やさしくなった義父を見て「おばあちゃん、離婚しなくてよかったね」と言うと、「冗談じゃないわよ、このぐらいのことしてくれって。私が嫁に来て四十五年、どんな思いで、どんな苦労をしてきたか、このぐらいのことしてもらったって、あたり前だからね、今までの恨みつらみなんて水に流せるもんですか」と義母は言い返した。

それでも三年後に死ぬ時は、義母は義父に感謝の言葉を残してこの世を去った。
それから三年たって義父は再婚した。高齢者の見合いの会に入って三十三回目に会った六十の女性と再婚した。

女の目からすると義父の新しいパートナーには問題がないわけではないが
義父が喜んでいるからまあいいか。

死んでしまって思うのは義母のこと。
義母から「ちょっと」と言われても
「何? 何か用? もう、黙ってたらわかんないじゃない。用がないんなら呼ばないでよ」という具合だった。
本当は義母は誰かと話がしたかったのだ。元気で外に出て行っていろいろ旅行とかできるお年寄りはいい。でも家に閉じこもりがちになる人とか、病気のお年寄りには話し相手が一番必要で、話し相手がいれば老化が遅くなる。話し相手がいないと鬱になったりする。ところが家族はなかなか話し相手をするゆとりがない。
著者の場合でも、義母との間に感情のしがらみがあり、なかなかよい義母だったが、何年何月にこういうことを言われた、こういう顔をされた、などしっかり覚えている。
そして義母の方は、もう親切にしたことしか覚えていないのだ。そこらへんに嫁姑のむつかしさもある。

家族の特定の者だけが、上手に、または気持ちよく介護を続けるのはむずかしい。
嫁や妻はタダであたり前と思われてしまうと、負担はそれだけで増えてしまう。
できれば家族みんなで介護するのが、よりよい介護、お互いのいい人間関係の大事な条件であると、著者は自分の介護体験からそういう。


[No.15799] Re: ぴんぴんころりでいきましょう 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/23(Thu) 17:03
[関連記事

> 女流講談師田辺鶴栄の本
> 自分の介護体験から、介護で苦しむ人たちの応援の本を書いた。

オムニバス形式で、何人かのおかしいケースを紹介しています。

山形のサクランボ農家に生まれたさくらさんのケース
ミス・ダダチャ豆にも選ばれた美人だった。ピアニストになりたくて芸大に行きたかったが、「女の子は女らしく、一流の大学を出て、一流の人のお嫁さんになりなさい」と両親に言われ、二十三歳の時、一流大学を出た銀行員と見合いをした。
背広はアルマーニ、時計はローレックス、身長180センチ、「これなら、ま、いいか」と結婚。
新婚旅行で行ったローマのコロシウムではコンサートが開かれていた。感激したさくらさんは目を輝かせて新郎を引っ張っていった。ところが、会場では夫はずっといびきをかいていた。食事に行くと、スパゲッティを音を立てて食べる。
帰国してすぐ実家に帰ったさくらさん「もう、ダイッキライ、離婚するわ」
だが、これから女一人で生きていくのは大変、跡継ぎの長男夫婦はいるから、今さら帰ってきても困ると両親に言われ、山形まで迎えにきてくれた新夫とともに東京に帰った。
それから妊娠したのを知り、産まれてくる子どもは一流の音楽家に育てようと決心する。
生まれた娘には、幼いうちから無理に頼んで芸大教授のところに通わせる。
親に頼んでは実家の田畑を売って、名器ストラディバリウスを手に入れ、娘に稽古稽古をしいて晴れて芸大合格となる。娘は幸運にも芸大を首席で卒業して、ウィーンに留学した。
しかし、言葉のよくできない異国での寂しさから日本人男性と同棲をする。
このことを耳にした母さくらは、とるものもとりあえずウィーンに飛んできた。
男はウィーンで洋菓子の勉強にきていた。
「お母さんは、菓子職人になるような男と一緒にさせるために、あなたを産んだわけじゃないのよ。あなたが一流の音楽家になることが、お母さんの夢だったのよ。こんな男と別れてちょうだい」
「お母さん、私、昔っからいやだったの。なんで、私がお母さんの果たせなかった夢を追わなければならないの。なんで私が犠牲にならなくちゃいけないの。彼はとても優しいの。私は彼とでなければ生きていられない。結婚します」
娘は妊娠しているから絶対結婚すると頑張って、すっかり傷ついたさくらさんは帰国したら酒におぼれるようになった。
悲しい荒れた生活をしたせいか、さくらさんはそれから胃ガンが見つかり手術をする。
それまで単身赴任だった夫は、出世をあきらめて東京に戻り妻の見舞いに通うようになる。
そして、夫は妻に必ず治るのだから、あせらずに治そうという。治ったら夫のふるさとの静岡の山に連れていきたいと言う。
それから三日後、夫からハガキが届いた。「○○山は子どもの頃と全然変わっていない。だがボタンの花の咲く○○谷は一面伐採されていた。これから、ボタンの咲く険しい谷の奥に行ってみるつもりだ」
それからしばらくして静岡県警から電話があった。夫が崖から転落して死亡したというのだった。
死んでしまって夫のやさしさに気がついた妻さくらは泣き続けた。
ケンカ別れして音信不通だった娘が帰国した。「男の子が産まれたの。お父さんが一郎と名付けてくれたの。お母さんに内緒で留学中ずいぶん私たちを支援してくれたの。赤ちゃんは彼が面倒を見てるわ」
娘は父の遺影に向かって涙を流しながらモーツアルトのレクイエムを弾いた。
それからのさくらさんは生きる元気が出て、バイオリンを稽古して、検査の結果ガン細胞は小さくなって、一年後にはコンサートも夢ではなくなったという。


[No.15800] Re: ぴんぴんころりでいきましょう 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/23(Thu) 21:53
[関連記事

> > 女流講談師田辺鶴栄の本
> > 自分の介護体験から、介護で苦しむ人たちの応援の本を書いた。
>
> オムニバス形式で、何人かのおかしいケースを紹介しています。

北海道の十勝の牧場にお嫁に行ったヤマトさん
朝は暗いうちから起きて、家族の食事洗濯はもちろん、牛小屋の世話、身を粉にして働き、六人の子どもをもうけて育てた。
さあこれから楽な老後をと考えていた矢先、夫が亡くなってしまった。
子どもは誰一人後を継ぐものはいない。
しかたがないから牧場を売ったら、一千五百万円のお金が手に入った。これで、高級有料老人ホームに入ろうと思ったが、最低でも一億円かかる。
そこに証券会社の社員が勧誘に来る。「株を買えば楽して儲かりますよ」
「一千五百万円あるけれど、一億円にはならないでしょ」「そうですね。あともう少々サラ金から借りてもらえれば一億円も夢じゃありません」
だが、バブルの崩壊で全財産を失った上、サラ金からも矢のような催促。
六人の子どもたちは借金まみれの母親をたらい回しにする。
すっかり落ち込んだヤマトさん、月日のたつのは早いもの、時は西暦2000年、日本にも介護保険が導入された。
さっそく行政の窓口に行ったヤマトさん、四十歳以上の方はみんな介護保険に入っていると聞いて安心。
申請手続きは介護認定調査員がすると教えてもらい、一週間後にようやく介護認定調査員が来る。
「今日は一日何をしていましたか」「はい、あなたがいらっしゃるというので、あんまり家の中がきたなかったもので、このへんだけちょっと片づけました」「あら、お掃除をされてましたか。自立されてますねえ。夜眠れないとか、昼夜の逆転はありますか」「眠れないときは、おちょこ一杯お酒をいただくと、ぐっすり眠れます」
「ボタンは自分でかけられますか」....というようなやりとりがあって、結局ヤマトさんは介護は認定されませんでした。「おめでとうございます。この調子で頑張ってください」という審査結果を受け取った。
驚くヤマトさん、ではもう介護保険料は払わなくていいのかと聞くと、これが違うんですね。「あなたより悪い人がいっぱいいるんです。介護保険というものは、みんなで支え合うんです。大変な方をボランティアしてあげるつもりで、もっと太っ腹になってください」と言われ
ああ国に裏切られた、死んでやろうと思い、故郷の四国に帰ってきて、ダムの堤防から身投げしようとした。
 講談なので、たいていこういうときは誰かが助けてくれる。
ヤマトさんも飛び込むところを止められる。
その人から介護の詳しいことを教えてもらう。
全国の自治体によって多少違うが、「要支援」の人は約六万円のサービスが受けられる。六万円のサービスであって、六万円もらえるわけじゃない。デイサービスとかヘルパーさんが週一、二回来てくれる。でも、一割負担だから、六千円ほど自腹がある。
「要介護5」の人は三十五万円ほどのサービスが受けられる。そこで、特別養護老人ホームに入ったとしましょう。で、一割負担だから、三万五千円払う。しかしこれからは食事代も自腹、雑費も自腹。毎月五万円はかかる。だから毎月五万円払える人じゃないと「要介護5」は受けられない。
たとえばじゃあその人、一万円分の負担となると、当然十万円までのサービスしか受けられないことになるのね。介護保険も導入されたばっかりだから、不備が多いのは当たり前なんだけどね。それに最近困ったことが起きて、重態のふりをする人があとを立たないのよ。
さあ、いこことを聞いたとばかり、ヤマトさんは「不服申し立て」をして「私はこんなに大変でーす」と演技して重態のふりをした。
「お年は」「たぶん五十、歳だったかしら、九十八だったかしら」「あらあ、痴呆ぎみかしら、その手は胸元まで上がるの?」「う、うー」
おむつまで見せたので、老人病院に入れられた。
老人病院には、いい老人病院と、悪い老人病院があり、ヤマトさんは悪い方に入れられた。
「要介護5」をねらったので、食事も喉を通らない、鼻に管を入れられる。
「あら、苦しそう。何だか管が全然入っていかないし、どうしようかしら。介護保険が導入される前は、反応のないお年寄りばっかりでやりやすかったんだけど、介護保険が導入されてから、何か反応のいいお年寄りばっかりで。どうしようかしら」
「あんたね、そんなの遠慮してちゃいけないのよ。顔なんか見なくていいの。気合いでやんなさい。気合いで。私がお手本見せてやるから見ててごらんなさい」
ほうほうのていで、この病院を出たヤマトさん、あのアドバイスしてくれた人に報告する。「実はこれこれこうで」「アハハハ、あなた重態のふりなんかするから、バチがあたったのよ」「本当にバチがあたった」「でも前より元気そうよ。いろいろ刺激になったんじゃないの」
「もう、刺激になって、刺激になってね。私、将来自分が、老後入るかもしれない施設のことなんて、まったく興味なかったの。徘徊するお年寄りが縛られてたりとか、人間の尊厳も何もないの。あれじゃ施設じゃない。収容所か、刑務所。あれじゃ福祉じゃない。あんまりだわ、あんなの」
 このあと関係者の苦労とか、問題点がいろいろ述べられているが省略します。
はっきり言って、介護保険はお金のある人は寝たきりだって呆けたって、どんどんなってもいいの。でもお金のない人、貯金のない人、年金も少ない人は、これからは狭き門よ。生活保護を受けている人には、減免措置があるけれど、みんながそれだって安心したら、税金がいくらあってもキリがない。若い人たちの肩にどっしりと負担がのしかかるんです。だからこれからは自助努力しなきゃいけない。
もう、あなたに待っているのは「ぴんぴんころり」。ね、この道しかないわよ。

ということで、この本の題名がつけられたらしい。
日本は先進国ドイツの真似をして介護保険をはじめたが、この制度が日本の文化や習慣に落ち着くまでには時間がかかることでしょう。
人ごとではありませんね。