著者の松木明知は弘前大学医学部名誉教授
要点は 弘前付近で発生した「ねぷた」が文献に出てくるのは、享保7(1772)年の「御国日記」以降である。 ちまたで言われている、坂上田村麻呂起源説や初代藩主津軽為信の京都で大灯籠製作説は根拠がない。 上方から移住してきた織物職人たちが盂蘭盆に灯籠をつくりそれを飾ることが許された。「ねぷた流し」のこの灯籠を明かりの代わりに持ち歩いたのが、独立してねぷた灯籠の現在の祭り形式へと整っていった(というのが著者の説)。 当時は全国的に七夕の時期には、人形(ひとがた)をつくって飾ったり、眠流し(睡魔を流し去る)の行事があった。 盂蘭盆で祖霊を清く迎えるため、前の日の七日に気味の悪い霊を立ち退かせることが行われ、「ボンハジメ」、「ナヌカボン」、「ナヌカビ」はその痕跡として残ったものだろう。後に眠たさも邪悪な霊と考えられ、それを流し去ることが行われ、それが「眠り流し」となった。 津軽では「眠り流し」を前述の「御国日記」では「祢むた流」と表記し、これを「ねぷたながし」と著者は推定している。 (柳田国男や折口信夫も、津軽のねぷたは「眠流し」からきているという説を発表しているそうです) 青森の「ねぶた」は弘前の「ねぷた」を現代風にアレンジしたものである。
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