本郷、このあたりは何度も歩いているので、この本に書かれている場所はたいていは、ほとんど頭に思い浮かべることができる。
石黒忠悳(いしぐろ ただのり)は軍医鴎外の上司として知られるが 福島県生まれで幕末に幕府の医学所に入学して、幕府瓦解時には句読師(くとうし)並になっていた。 司馬遼太郎によると、句読師とは漢文や欧州語の「読み方を教える人」で大学助手に相当するという。動乱時に江戸をのがれ米沢や越後を転々とし明治二年に東京に戻る。 それから新政府のもとで、日本の陸軍軍医制度の基礎を築いたのをはじめ、近代医学教育、看護婦養成など各方面に功績を残した。 実務を期待通りになしとげていった堅実派の人物なので、鴎外が医学にとどまらないで文学にも手を出したことが気に入らなかったのであろう。
無縁坂は鴎外の「雁」の舞台 主人公の岡田は医学生で鴎外かその友人がモデルであろう。 岡田に好意をいだくお玉は金貸し末造の妾である。末造の描写はなかなかうまいと司馬遼太郎はほめている。 この本には書いていないが、実は鴎外はお玉のような女性がいた。結婚前に母親が息子のためにそういう女性を用意したらしい。 鴎外としたら、医学生岡田のことも書けるが、お玉のような女性も観察する機会があったから、作品を書く上では資料不足はなかったのだろう。 家族にも気を使い、役人としての勤めも無事はたし、文学界に功績を残した鴎外は、よく努力したと思うが、その実際の生活を知る人は、鴎外の二重人格的な生き方に違和感をおぼえるかもしれない。
将軍家から降嫁した奥方のために加賀前田藩が建造した赤門 その赤門の向かいに幼い一葉が住んだ家があるという。 一葉の井戸というのが菊坂下にあるが、これを探すのに四、五回行ったことがある。 なかなかわかりにくく、階段の所に地図と案内板があったのでとうとう見つけることができたが、ある人に話したら「よく見つけましたね」とほめられた。 思うに近所の人は、観光客がうろうろするのは騒がしくて嬉しくないから、あまり案内板など置きたがらないのだろう。 竹久夢二の宵待草の歌碑も千葉県銚子のあしか(海鹿)島で探した時も苦労しました。
東大農学部構内にある朱舜水の終焉の碑については再度確認に行ってこなくては。
真砂町丁の炭団(たどん)坂に坪内逍遙家があって若い学生を世話していたが、松山藩主だった久松家が旧藩士の師弟たちの育英のため常磐会をつくり、坪内逍遙宅を買い取り建物をこわして常磐会の寄宿舎をつくった。正岡子規はここに寄宿したのである。 炭団坂には宮沢賢治の下宿があったというのでここは歩いたことがある。 かねやすの近くの喜之床(きのとこ)には啄木一家が部屋を借りていたのだが、この本には啄木も賢治も出てこない。竹久夢二もない。そこまで広げると拡張しすぎだと考えたのだろうか。
徳川家康は徳川家の繁栄を願って種々の配慮をした。 たとえば加賀藩前田家であるが、前田利常のときは全国的にも大名は困難な時期であったが安泰をはかって努力した。 広島城主福島正則の家も、肥後の国主加藤清正の家も、会津若松の加藤嘉明の家もつぶされた。 前田利常は金沢城の補修をとがめられ、家老に何度も幕府要人たちを歴訪させ弁明につとめ、四十半ばで子の光高に家督を譲った。すでに光高には水戸徳川家の娘を娶せ、世継の綱紀もうまれた。 光高が夭逝したので、利常は幼少の孫綱紀のために後見し、綱紀の夫人として、将軍家光の弟である会津藩主保科正之の娘を娶り、徳川家との縁をつよくした。 このようにして前田家は江戸時代に家を守ることができたのだが、その江戸屋敷が東大の敷地となったわけである。
しかし、これほど各大名の力をそぎ、徳川家安泰作をとったにもかかわらず 幕末になって、外国船が日本にたびたび訪れるようになり 近藤重三や最上徳内や林子平などの蘭学者が幕府を批判したり知的活動をしたのを正当に評価できなかったため、滅んでいったのはやむをえなかった。
「三四郎」で漱石が予言したように 「いくら日露戦争に勝っても、一等国になっても駄目ですね」 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」 「亡びるね」 という車中の会話は 三十八年後の昭和二十(一九四五)年に実現する。 と司馬遼太郎は書いている。
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