この本は 読売文学賞、山本七平賞特別賞・日本児童文学学会賞特別賞を受賞している。
なかなか読みごたえのある本だ。
北原白秋は西條八十をライバル視していたらしい。 手塚治虫も福井英一や石森章太郎をライバル視して一時的にノイローゼになったらしい。 石森章太郎は手塚治虫系統だからわかるが、福井英一は手塚漫画とは雰囲気が違うと思うのだが。
関東大震災で、西條八十は落ちてきた屋根瓦で額を怪我するが、それでも妻子や母親や兄の安否を求めて東京中を走り回る。幸いみな無事だった。 大混乱の人混みでなかなか進めず、深夜の上野の山で過ごすことになった西條八十は 疲労と不安と飢えで無口になった群衆のなかで、一人の少年がポケットからハーモニカを出して吹くこうとしていたのを見る。 西條八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのではないかと案じ、止めようとしたがもう少年は吹きはじめた。 「それは誰も知る平凡なメロディであった。だが吹き方はなかなか巧みであった。 と、次いで起こった現象、これが意外だった。群衆はわたしの危惧したように起こらなかった。おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった」 上野の山の群衆はこのハーモニカの音によって慰められ、心をやわらげられ、くつろぎ、絶望のなかに一点の希望を与えられた。 この情景を見ていた西條八十はあとで自伝に書いている。 「わたしは大衆のための仕事の価値をはじめてしみじみと感じた」 「このときの感動が、後日ぼくにレコード歌を書かせる契機となったのであった」 後年、西條八十はNHKのラジオ番組「私の秘密」でこの少年(山北藤一郎)と再会している(昭和34年10月23日)。
さて この関東大震災だが、同じ頃野口雨情作詞中山晋平作曲の「船頭小唄」が映画化され全国的に流行して、あまりの流行に退廃的だという批判がなされ、関東大震災後に、この歌の流行のために震災が起きたのだと幸田露伴が新聞に書いたほどである。 阪神大震災の時も、世の中の道徳的でないことがあったため大震災が起きたと指摘する人もいた。いつの世も、事件や天災とその当時の世相を結びつけ警告を与えようとする人間はいるものである。
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