> 吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語
西條八十が昭和3年に、童謡雑誌「コドモノクニ」から 正月にふさわしい子どもの歌を頼まれて 「毬と殿さま」を書いた。 出だしを「てんてんてまり」としたら 中山晋平が「それでは調子がよくないので、てんてんてんまりとしたい」と主張した。 また、垣根を越えての後の「路地抜けて」を「屋根越えて」のほうが調子がよくなるといってきかない。 さすがに八十も反論した。 「昔の手毬は今のゴム毬みたいに弾みませんから、垣根は越えても屋根は越えません。路地抜けてのほうが理に適っています」 「いや、たとえそうであっても、『垣根を越えて屋根越えて』としたほうが調子よくて歌いやすいのです」 作曲者にそう主張されては変えざるをえない。
「鞠と殿さま」 てんてんてんまり てん手鞠 てんてん手鞠の 手がそれて どこから どこまで飛んでった 垣根をこえて 屋根こえて おもての通りへとんでった とんでった
この曲がヒットしたものだから、さすが中山晋平はヒット曲を作る名人だと八十も感心した。 八十は弟子の佐伯と門田にこう言った。 「こんどの童謡では、晋平さんから大事なことを学んだよ。それは、歌詞のつじつまが合わなくとも、曲に乗るような歌詞ならば、結果的には良い歌になるということだ」 「それは歌いやすさを最優先するということでしょうか」 「まあ、そうとも言えるだろうね。僕が中学時代、雨情さんの詩集を読んだ時も同じようなことを感じた。詩の重心を言葉の響きに置いて、読んだ時の調子を良くするためには詩の内容さえも犠牲にしてしまうんだ。雨情さんにはその大胆さがあったから、あれほどの名作童謡が書けたのだろう。大衆歌も同じことだ」 この教訓は後年、二人が流行歌の作詞をする上で大いに役立つことになる。
野口雨情でさえも、中山晋平から注文され、詩を変えてしまう。そういうことが何度かあったという。わがままともいえる中山晋平の注文、しかし、できた歌がみなヒットしたから、結果良ければすべて良しとなってしまった。
マンガも写実的なマンガもあるが、そのままではなく誇張したり省略したりして 読者に訴えやすいメッセージを絵で伝えるものである。 時には論理がとんでしまうマンガもある。
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