仙台に本社のある河北新報社の本
北上川は昭和になってからも洪水で地域の人々を悩ませていた。 伊達政宗は、二十代の川村孫兵衛を長州から迎え 北上川改修工事をさせた。 なぜ、川村孫兵衛かというと、彼は当時南蛮人からすぐれた治水技術を学んでいたからという。そして、彼はキリシタンだったらしい。 伊達政宗も支倉常長をローマに派遣して西洋の文明を取り入れようとしていたから キリシタンに対する警戒感はひとまずおいておいて、積極的に異文化交流派だったのだろう。 しかし、秀吉や家康はキリスト教を禁止する方向をとるので、伊達政宗もその方向に従わざるをえなくなり、帰国した支倉常長には悲惨な運命が待ち受けるのである。
この本で知ったことは、川村孫兵衛がキリシタンだったことと もうひとつは盛岡中学五年生の石川啄木が修学旅行で、北上川をくだり石巻まで行ったことである。 そもそも、退学した啄木は中学五年生まで在学していたということを初めて知った。 啄木が書いたという記名はないが、当時の旅行記録が盛岡中学(現盛岡一高)に保管されていて、啄木日記などと比較した結果、ほぼ啄木が書いた修学旅行記であろうということになっている。
とすると あの有名な「東海の」の短歌が、どこの場所をモチーフにしたかという議論が また複雑になってくると思う。
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