> 著者は函館西高から弘前大学医学部を卒業した精神科医
> 「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の原風景はどれか。
この歌には特に場所は特定しないという説もある。 この歌は情景歌ではなく、象徴歌だとする説である。
この本には 野口雨情による修正というユニークな説を紹介している。 札幌時代に、啄木から元歌を聞いて、二点ほど直した方がいいと雨情がアドバイスしたというのである。 すなわち 東海の小島の磯の渚辺にわれ泣きぬれて蟹とあそべり ↓ 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる 「渚辺に」を「白砂に」、「あそべり」を「たはむる」に直した方がよくなると雨情は言ったという。 これは野口雨情の回りの人々にとっては常識である、雨情は生前によくこの話をしていたらしい。
この著者は、プライドの高い啄木が簡単に雨情のアドバイスを受け入れたであろうかと否定的である。 啄木の日記にはそれらしいことは書いていない。 しかし、考えてみると「一握の砂」の歌は東京でつくったとしても回想的であり、東京以前の長い間に少しずつつくっていったものや心にとめておいたものが少なくないのだから 札幌時代に啄木が雨情に少しばかりそういう歌を披露した可能性はないわけではない。 当時の雨情の詩人としての地位は啄木をはるかにこえるものであるから あれは実は自分がコメントしたということを売名行為としてつかう必要もない。 もしかしたらあったことかもしれない、と述べている。
ちなみに、啄木は父のことを読んだ歌がある。 かなしきは我が父 今日も新聞を読み飽きて 庭に小蟻とあそべり ここでは、「あそべり」という表現をつかっている。
啄木短歌の秘密を書いたあの大沢博先生も この歌の「小島の磯の白砂」という矛盾を指摘している。 そもそも磯と砂浜は別のものである。特殊な場所では磯と砂浜が共存するという人もいるが。 詩人として、磯と砂浜の厳密な区別はしないで口調を整えるために、こういう書き方をしたのであろうか。 この本では、啄木は砂浜と磯を区別しなかったという説を紹介している。 啄木の盛岡中学五年生の「就学旅行日記」には 「日和山から望んで胸ををどらして海岸へゆくと、数里に亘る砂浜は、直接に、太平洋の荒波を受けて、砕け又くだくる壮大の姿。 自分はこの荒磯に立って、あかずあかず眺めた」 ここでは啄木は砂浜を荒磯と書いている。啄木は、砂浜と磯を同意語と思ってつかっている。 (石巻市役所に問い合わせた結果、長浜海岸は約四キロの砂浜海岸で岩場はまったくないという)
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