体験的国際交流論 アグネスチャン 1989.3
スワヒリ語には「今」「きのうの今」「過去」という言葉はあるが、「未来」という言葉はない。 彼らにとって時間というのは「今」がいちばん大切。 なぜなら、時間はイコール経験であり、経験しないものは存在しない。存在しないものは当然言葉にあらわす必要もない。 人が死んだとする。彼らは、人が死んでも、その人は存在すると考える。「リビング・デス」 この、生きている死んだ人と、「ストーン・デス」つまり石のように死んだ人とを区別する。 リビング・デスは、自分の頭の中に生きている人。その人を覚えている人がみな死んだら、ストーン・デスとなる。
テレビは視聴率に害されている。 ニュースをショーにすれば、視聴率が上がればもっとお金が沢山入ってくる。 だから、ニュースにもショーの要素を取り入れなければならない。 キャスターは目立つ人、面白い人にしよう。女性キャスターは美人にしよう。 でも、ニュースはエンターテインメントではない。正確な情報を伝えなければいけないから、それなりに判断力のあるスタッフ、選択力のあるスタッフ、本当に社会意識をもっているスタッフがいないとだめだ。 ニュース戦争がエスカレートし、ますますニュースの中にドラマを求めるようになってきた。 たとえば日航機が落ちて、取材班が現地に飛ぶ。そこで、やってきた家族に「あなたの今の心境は?」と、泣くまでインタビューする。 私はそれを報道だと思わない。ニュースがショー的ドラマ的になればなるほど、怖い世界になってきたと感じる。 残留孤児の人たちのことにしても、視聴者が自分の頭を使って 彼らの置かれた状況や心情を理解し、心から自然にわいてくる感情が本物と思う。 テレビが一方的に、見る側にこういう感情になってもらいたい、だからこういう絵を作る、というのは貧しい発想だし、一歩間違えば怖い結果につながる。 最近は報道番組も視聴者にアタックするために、すごく感情的なところに入ってくるようになったと思う。それは恐ろしいことである。 自分は自分の判断をもちたい、自分の気持ちを持ちたい、それなのにそういいながらもついつい自分がだまされてしまうことがよくある。 報道が金儲けを考えるとスポンサーをたくさんつけなければならない。そして、お金を出すスポンサーは神様になる。スポンサーの意見が知らず知らずのうちに尊重される結果となる。
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