ヘンドリック・ハメル著、生田滋訳 朝鮮幽囚記 平凡社
オランダ東インド会社は1602年に組織され 東洋においては活動の拠点をジャワのバタビア(現ジャカルタ)に置き、西は喜望峰から東は香料群島に至る広い地域で貿易を行っていた。
1653年7月29日、台湾を出向して日本に向かったオランダ商船は嵐に遭遇し 8月16日に済州島南部の海岸に漂着した。
朝鮮の存在がはじめてヨーロッパに知られたのは ポルトガル人が種子島に漂着してからであった。 日本が呼んでいたコレア(高麗)をそのまま、ヨーロッパ人はつかった。 当時のシナ人は朝鮮と呼んだ。 この本に書かれてあるオランダ人の記録によると タルタル人(満州人をさす、清朝の民族)はコレイと呼んだ。
さて 済州島に漂着したオランダ人たちは64人であったが、朝鮮での生活の厳しさに やがて36人に減った。 その間に逃亡を試みた者は捕まりムチ打ちの刑を受けてしばらくは歩けないほどだった。 済州島の総督が交代するたび、彼らの待遇は変わり、ほとんどの総督は彼らを使役させた。たまにオランダ人たちによい待遇をする総督がいた。 寒い季節の衣服や薪にも不足がちで、食べ物も不十分であった。 そのうちにソウルに連れて行かれ、弓の訓練など兵士としての訓練を受けたりしたが 結局は全羅道兵営に配置された。 彼らが日本に脱走する計画をやっと実行したのは漂着後13年後であった。 そのときは16人に減っていたが、8人だけが日本に向かって船で出発したのであった。 当時の彼らは、船で付近の島々へ木綿を手に入れるため航海していたので、船に乗ることは怪しまれなくなっていた。 彼らは必死にお金をためて、日本行きの船を買い求めたのであった。
海図もなく勘で日本に向かった彼らは運よく五島列島に達し 出会った日本人に、用意していたオランダ国旗を見せ「オランダ、長崎」と叫んで 自分たちがオランダ人であって、長崎に向かっていることを知らせた。 やっと長崎について、出島のオランダ商館に引き渡され、13年ぶりに同胞たちと再会できた(1666年8月13日)。
このあと、江戸幕府の厳しい取調べが何度かあって 彼らはキリスト教を布教に来たポルトガル人ではなく、オランダの商船の船員であることが確かめられ いっぽう対馬藩を通じて朝鮮にも問い合わせをして、彼らの報告が妥当であることが確認され このオランダ人8人は無事オランダに帰国することができたという。
そして 朝鮮半島に残された8人のオランダ人については 江戸幕府から対馬藩を通じて、朝鮮に問い合わせがあった。 朝鮮としては、清国(シナ)にも内密にして、オランダ人たちを一生国外に出さないようにしていたのだが 日本からの問い合わせがあり、もはや隠してもおけず この問題を手始めに諸々の要求を日本から持ち出されることをおそれ かつ、オランダ人の扱いも手に余っていたので 8人をオランダに帰国させることにした。 しかし、1人は朝鮮にとどまることを希望したので 7人が対馬を経由して長崎のオランダ商館に引き渡された。 彼らは1668年10月27日に長崎を出帆し、11月30日にバタビアに到着した。 その後は無事オランダに帰国したという。
オランダ人の目を通して 当時の朝鮮および東アジアの様子がわかる興味深い資料である。 済州島の厳しい生活、それを読むとなにやらチャングムの話を思い出すのでありました。
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