青木隆直:新韓国探見 新潮社 1997
韓国に関する本を手あたりしだいに読んだ。 この本はなかなか重い内容の本である。
著者は札幌にある新聞社の記者であるが 特派員としてソウルに滞在した。その体験とその前後の韓国や韓国人に関する取材もふくめて この本にまとめたものである。
樺太つまりサハンにも現在も韓国人は住んでいる。 戦前に日本人と一緒に樺太に住んでいたのだが 日本人は引き上げてきたのに、韓国人は樺太に残されてしまった。 李起福さんもそんな一人だった。 彼は全羅北道の出身だった。春香伝の舞台である南原市から北へ15キロのところだという。 24歳のとき畑にいた彼のところに役場から日本人が来て 樺太で労働者が足りない二年間だけ行ってくれないかと言われた。 もし彼が断ったら「お前が行かなければ父親を連れて行くぞ」とか「明日から家族が食えなくなってもいいんだな」「村から必ず一人は行くことになっている」と言われる世の中である。 人によっては、強制連行はなかった、本人の希望だった、徴用だったと言う日本人がいるが 当時の情勢ではとても断れるものではなく、形式的には本人の同意とか希望だったということになっていても、実質的には強制連行と同じようなものだった。
こうして他の大勢と一緒に汽車で釜山まで行き、そこから船で樺太まで連れて行かれた。 樺太では労働条件も悪く危険な坑内労働をを続けたが、約束の二年がすぎても帰してもらえなかった。戦争のためまた二年間働いてくれと言われた。 腹が立ったが抗議したり反抗するとひどいめにあうから我慢して働いた。 そのうちに終戦になって回りの日本人たちは日本に帰っていったが、彼らは樺太に残された。
彼は樺太で韓国人と結婚した。妻となる彼女は子連れの再婚だった。 ゴルバチョフのとき、やっと韓国に帰られるようになった。 そのときは独身でなければ韓国に帰られなかったので、妻とは話し合って離婚してきた。 あとで妻を呼び寄せるつもだった。 彼には甥が韓国にいて、甥が呼び寄せてくれたのだった。 著者は以前に樺太で取材していたので、李起福さんとまた韓国で再会したのだった。 それから数年して李起福さんはガンで、韓国の老人ホームで一人寂しく亡くなった。
鄭先周さんはやは樺太から引き上げてきたおばあさんだ。 朝鮮で生まれ九歳のとき親に連れられて大阪に来た。十三歳のとき両親と一緒に北海道の美唄に来た。 十五歳で炭鉱の坑内員の朝鮮人と結婚した。それから夫婦は樺太に渡った。 昭和19年に政府は樺太や北海道のの七炭鉱を不経済炭鉱として、三千人の朝鮮人坑内員を常磐炭鉱と九州の炭鉱に配置転換することを決めた。 こうして鄭先周さんの夫の河龍成さんは九州の炭鉱に行ってしまった。 日本人坑内員も転換の対象となったが日本人の場合は家族同伴で移動が認められたのに 朝鮮人坑内員の家族は認められなかった。鄭先周さんは五人の子どもたちと樺太に残った。 それから終戦となって、彼女は二度と夫とは会えなかった。
彼女の夫は韓国に住み手紙が一度だけ送られてきた。ソ連は北朝鮮とは国交があったが、韓国とはなかったため、以後の連絡はできなかった。 彼女は樺太に残る子どもたちの反対をおしきって一人だけで韓国に帰ってきた。 なんとしても夫の横に眠たかったから。
慶尚北道の大昌養老院で鄭先周さんの話を聞いた著者は 一度だけ甥が夫の墓参りに連れて行ってくれたが、その後はまったく墓参りに連れて行ってくれず、死ぬまでにもう一度行ってみたいと語る。 見かねて著者は、(ソウルに戻らねばならなかったが)彼女を連れて高速バスに乗って墓に行くのだが、彼女の記憶は怪しくなかなか見つけられない。でも、あちこちで人に聞いてやっと墓を見つけて墓参りをすることができた。 彼女の夫のそばに眠りたいという願いは、しかし無理な願いだった。 なぜなら、同院では入居者が亡くなった場合、火葬に付して遺骨を院の隣にある寺院の納骨堂に収めるのが決まりであったのだ。 最大の理由は院の財政上の問題であった。施設入居者が死亡すると埋葬代として国から三十万ウォン(当時の換算で約三万八千円)の公的助成が出るが、その金額では火葬代にさえ ならない。まして土葬するとなると、穴掘りや運搬、埋葬までの作業員を雇ったり、棺の制作など含めてその倍以上、最低でも八十万ウォン(約十万円)はかかる。だから誰も引き取り手がないと火葬にせざるをえないのである。
「どうして私たちだけが火葬にされなければならないのか、昔から朝鮮民族は火葬の習慣はなかった、樺太でも土葬が当たり前だった。ワシははじめ日本人ばかり恨んでいたが、今度は韓国人も恨むようになった。韓国ではもともと火葬なんかしなかったのに、どうして...」と泣く彼女のことを、著者は新聞に書いた。(おそらく特派員だから北海道の新聞に書いたのだろう) そうしたら、読者から十万円の浄財が送られてきたという。その後もいくばくかのお金が院に届き、彼女はそのお金で、夫の墓のすぐ横に小さな土地を買うことができた。さらに、亡くなったら、大昌院からその墓までの運搬と埋葬にかかる費用のすべてを一部の人たちの暖かい志で賄う目途をつけることができた。 1996年、大昌院を訪れたとき、彼女は著者に「本当にうれしい。ありがたいのです。みなさんにそう伝えてください」と何度も何度もそう言ったという。 ここまで読んで、この本は以前に読んだことがあることに気がついた。
著者は複雑な気持ちであることを書いている。 もちろん浄財を寄せてくれた方々の善意は深く感謝するが 鄭先周さんの場合はたまたま、そういう善意に恵まれたから思いをとげることができたのであって、他の入居者の同じ願いはかなえられそうにもないからだ。
この本には 次期大統領選挙では、金大中が大統領になることは絶対にない と書いてあるが この本が出てから金大中大統領が実現したのだから選挙はわからない。 未来の予測は難しい。
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