木村聖哉:添田唖蝉坊・知道 演歌二代風狂伝
西武新宿線小平駅で降りる小平霊園に添田唖蝉坊・知道親子の墓がある。 添田平吉 昭和19年2月8日没 享年73歳 添田タケ 明治43年1月12日没 享年29歳 添田知道 昭和55年3月18日没 享年77歳 添田キク 昭和46年9月25日没 享年70歳
若い添田唖蝉坊が飛び込んだ壮士演歌の世界では、壮士は反政府的ではあったが、愛国者であった。 ナショナリストであった。反政府であっても反日本、反国家ではなかった。
「ああ金の世」 ああ金の世や金の世や 地獄の沙汰も金次第 笑ふも金よ泣くも金 一も二も金三も金 親子の中を割くも金 夫婦の縁を切るも金 強欲非道と譏らうが 我利我利亡者と罵ろが 痛くも痒くもあるものか 金になりさえすればよい 人の難儀や迷惑も 遠慮してゐちゃ身がたたぬ (添田唖蝉坊)
「東京節」 東京で繁華な浅草は 雷門、仲見世、浅草寺 鳩ポッポ豆うるお婆さん 活動、十二階、花屋敷 すし、おこし、牛、てんぷら なんだとこん畜生でお巡りさん スリに乞食にカッパライ ラメチャンタラギッチョンチョンデ パイノパイノパイ パリコトバナナデ フライフライフライ 添田知道の処女作は、アメリカのジョージア・マーチが原曲だという。 売文社に勤めていた知道は「ノンキ節」を「新社会」に載せるにあたって承諾を得るため 父唖蝉坊のところに行く。 ちょうど父は何か作品をつくっていたところで、息子にも何かつくってみないかともちかける。 洋食屋のメニューみたいな「フライ、フライ。カレーライス、ソーダミルクにカフェ、ナフキン」の一節を見せられて 出鱈目節などというものをつくってきた添田唖蝉坊だから、どうせ浮世はでたらめだという感があって、口ぐせにもなっていた。 それで、デタラメがラメとなり、ラメチャンとなり、パイがパイノパイノパイの囃子言葉になったという次第だと知道は「演歌師の生活」で述べている。 関東大震災の時、日暮里はかろうじて焼け残っていた。 そこへ知道は作ったばかりの「大震災の歌」を引っさげて演歌に行く。21歳の若い演歌師であった。 どこもかしこも薄暗くて、どの家もどの家もひそみかえっていた。かつかつの食料を手に入れることがせい一ぱいの時期である。こんな陰気千万なときに歌などうたったら、どなられるか、またひっぱたかれでもするのではないかと、不安だった。 おそるおそる、まったくおそるおそる、オリンを弾き出し、うたい出してみた。せまい横丁である。あちこちから忽ちの、人が飛び出して囲まれた。けれど、怒られるのではなかった。みなしいんと聴いているのだった。被害の状況を語り綴った報道歌を、うたい終わったら、それをくれ、くれと、みな手をのばして寄ってきた。売れた、売れた。 ほっとした。そこで「復興節」の方をうたってみた。これは軽快調である。すると、さわやかな笑いがおこってきたではないか。これでまったく安心した。 そして、人は、どんな悲憤の底にいても、歌は欲している、ということを、思い知らされたのである。 「演歌師の生活」(昭和42年)
添田唖蝉坊・知道は日本の演歌の歴史をまとめた。 (ここでいう演歌とは明治の自由民権運動の演歌であって、現代の歌謡曲のことではない。壮士演歌は政治や世相を鋭く風刺した歌である。もとは自由民権運動を啓蒙するというまじめなものであった)
知道が学んだ下谷万年小学校の校長であった坂本龍之輔という教育者をモデルとにして書いた「教育者」は戦中から戦後に書かれたが、昭和18年に第六回新潮社文芸賞を受賞している。この本は多くの日本人に影響を与えたとされている。
知道とキクは幼なじみであった。 芸者をしていたキクと知道との結婚に難色をしめしていた父添田唖蝉坊は それゆえ嫁との仲が悪く、親子は別居していた。
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