水木しげるの弟子の つげ義春がそば屋の二階に間借りしていたときのことだった。 つげは寝イスを買って一日中横になっているのがたのしみだったようだった。 あまり静かで無人だと思ったのか、あるいはつげ義春の心が雀とかよったのか 雀が毎日のように遊びにくるようになり、はじめは窓のあたりにきていたらしいが、しまいには寝イスのまわりを廻ったりして、安全をたしかめたのか散歩していたのか知らないが、一週間ばかり毎日遊びにきたらしい。 間もなく、ヒザの上で遊んだりしていたらしいが、信頼できる人間だと思ったのだろう、しまいには、ワラなんかをくわえてきて、つげ義春の腹のあたりに巣を作ろうとしたので、つげもあわてて立ち上がったらしいが、いずれにしても雀が遊びにくるというのは大変めずらしい話である。
宮沢賢治も「鹿踊り(ししおどり)のはじまり」なんかの童話をみると、やはり言葉はわからなくても動物と友達だったらしい。 彼の童話はいずれもすがすがしい微笑をさそうわけだが、「アメニモマケズ」などを読んで感激した人たちが、いつしか聖宮沢賢治にしてしまうと、せっかくすがすがしい微笑をさそう童話がなにか重苦しいものに感じられるからおかしなものだ。 いわゆる、「真を求めそのために詩を失う」といった感じだ。 ぼくは彼を東北の「ムラビト」にしておいた方がはるかに味わい深いものだと思う。
水木しげるのまんがは、背景がとても細かく詳しく描かれている。 あれはスケッチをするのではなくて、写真に写してくるのだという。 まんがも連載をかかえて、大量生産するとなると、アシスタントがそういうものを描くわけで そうすると写真が必要になってくるらしい。 自分が描くとしても、その場面の場所が指定されたりすると、写真を使うことになる。 覚えているというだけでは間違っていることがあるからという。 二十年くらい前からその必要性を感じて、まんがに使いそうな日本に外国の廃屋とか怪奇ものに使われるような風景とか、民間信仰とかいうものを集めて写真データファイルを作った。 彼のえらいところはすべて頭の中に入っている。必要なときにはすぐ探せるという。
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