無駄の必要度 不思議なイタリア料理店 どこが入り口かわからない。やっと建物の横にあるのを探し当てた。 中に入ると、吹き抜けの広々とした空間、水がある、木がある、光が入る。 そこは、いわば屋根つきの中庭だった。その庭を通りすぎて、階段を上るとレストランにやっとたどりつく。 (変だとか不便だとか言わないように注意して)不思議な建物ですねとの著者の感想に 店の女主人が苦笑いした。個人住宅を買ったのだが、普通のつくりではなかったため、レストランに改装するのが一苦労だったそうだ。 「たとえば、あの電球...」と中庭の壁の上方についている電球を指し示し溜息をつく。 「一個百円くらいのものなんですけどね、交換するのには百万円かかるんですよ。足場を組まなくちゃならないから」 こんな建築は某東大教授だった人の作品、ちなみにこの教授は工学部の教授だが博士ではない。建築の世界は構造系なら博士でなくては教授になれないが、計画系では博士は必要ではない。 このあと、電球が切れたら対応が不便な家のほかの例として、必要のないところに階段をつけて、しかも手すりをつけなかったため、あるとき著者がその階段から落ちて怪我をする話が書いてある。 使う人のことを考えない建築家のワガママ、私は建築学会の会員でもあるが、建築には合理性をわざと無視する傾向がある。これはいかがなものかと思う。無駄とか建築家の個性といっても維持管理に莫大な費用がかかったり、そこに住む人が怪我をしては、目的を自覚していない設計者ということになる。使う人のことを考えない工業製品を作れば売れないだろうに。
美輪明宏の言葉 「ヒトってね、保護色なの」 「マホガニーの壁、ふかふかの絨毯、観葉植物、名画、そういう立派なオフィスにいたサラリーマンがね、左遷されて、プレハブに蛍光灯の、味もそっけもないところで長いこと仕事していると、やっぱり、人間もなんだかそんなふうになってきちゃうの」 服もその着ているとヒトと調和する。ヒトが着ている服に調和するのかもしれない。 住まいとか環境に合わせるのが人間楽だから。 西田幾多郎流にいえば、主体と客体が一致しているほうが心が穏やかになるということだろう。 美輪明宏の保護色説は、人間の保身術ととらえたい。
「戦後、日本人が失ったのは、縁側である」 正確な言葉は忘れたが、森繁久彌がそんなことを言っていたと著者は書いている。 縁側の文化のこと 縁側には、玄関ほどのよそよそしさ、ものものしさはない。勝手口のような、せわしなさもない。外に向かって、ゆったり、温かく開いている。 「男はつらいよ」で、「母はね、寅さんのこと、好きだったのよ」と、亡くなった母親の心を明かしたのも、縁側だった。寅さんは、庭先で静かに聞いていた。ああいう話は、玄関ではしないだろう。秋の陽射しをいっぱいに浴びた縁側だからこそできた打ち明け話だったのかもしれない。 季節と心を通わせる場所、家の中のようにくつろいで、外に向かえるとろこ。子どもにも動物にも愛される...。 そんな場所を、戦後の日本人が本当に失ってしまったのだとしたら、こんなにさびしいことはない。 シリーズ第18作 「男はつらいよ 寅次郎純情詩集|のことでしょうか。 http://www.tora-san.jp/toranomaki/movie18/
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