黒澤明と小津安二郎の映画は対照的である。 あらゆる映画技法を使いこなし、世界に冠たるダイナミックな「黒澤ワールド」を築き上げた黒澤明。 あらゆる映画技法を打ち捨てて、清澄で静かな日本を終始描き続けた小津安二郎。 ともに世界の映画の頂点に立つ監督でありながら、その思想から、作風から、技法から天と地ほどに異なる二大監督である。 それはシナリオからカメラから映像から演出から、さらには俳優から、音楽から、裏方からと、微細なところまでまったく相い異なるのである。
黒澤明と小津安二郎の二人を並べると、なんとなく二人は相当の年齢差があるような気がするが、実際には七歳しか違わない。 小津はサイレント時代から活躍していたのに対して、黒澤はトーキーになってから、それも太平洋戦争末期から活躍したということと、また小津はがんのため昭和38年に60歳の若さで他界したため、小津の作品は昭和37年の「秋刀魚の味」が最後の作品だったのに対して、黒澤は平成5年の「まあただよ」まで撮っており、88歳の長寿を全うしたから、二人の世代が大きく異なるように思われるのである。
黒澤明の有能なことは、照明を担当した石井長四郎も言っている。 「当時山本嘉次郎監督は、自分よりも黒澤助監督の方が監督みたいだと言っていました。ワン・カット終わって山本さんが「カット!」と言うでしょう。それから後ろを見るんです。後ろに黒澤助監督がいて、黒澤さんが「まだまだ、もう一回」と言うと撮り直しなんです。「OK!」と言えばOKなんです」 これは黒澤明がそこまで進歩していたという証明にもなるのだが、師匠の山本嘉次郎が後輩を育てる意味もあってやらせていたことなのであった。
小津安二郎も助監督時代に似たような経験をしている。 小津の師匠は大久保忠素という監督だった。 天衣無縫は性格で、急に胃が痛くなったり、「頼むよ」なんていって消えてしまったりした。 大久保監督が留守の時は皆で相談して、小津が監督に祭り上げられ(すでに人望があったのか)残りの部分を撮ったりした。 おかげで小津は助監督時代からまねごとだが実際の監督をすることができた。 また大久保監督はシナリオやコンテ、ギャグにいたるまで小津にまかせ、それだけ小津を信頼していたという。
|