これは面白い本である。 何度も読んだほうがよい本である。
まずいくつかの盗作事件が紹介され、何人かの大学教授がそれで退職したことを新聞記事をつかって述べている。 それに続いて なぜ盗作がおこるのかという疑問に対して 「それは、その人々に創造性が欠けているからだ」という考え方があるが この著者は「そうではない。盗作をする人は模倣性に欠けているからだ」と考えたほうがよいと提案する。
著者によれば 大部分の盗作事件は、盗作者がその盗作をはっきりと自覚していさえすれば、問題にならなくてすんだものである。 模倣が創造をよそおうとき、はじめてそれは盗作となる。 日本では、模倣があまりにもいやしめられ、創造ばかりがもてはやされるものだから、多くの人が、模倣を創作と気どるようになる。そこで盗作か横行するということになるのだというのが著者の考えである。
もともと科学における創造というものは、模倣を前提になりたつものである。 創造は他人の研究成果の模倣の上にたって行われるというだけでなく、創造は他の人々が模倣するような新しい知識の提供をめざすものだからである。 だから、科学が発展するためには、新しいものを発見する人々以上に、そのオリジナリティーを認め、それを積極的に評価、模倣し、広めるような人々がたくさんいなければならない。
著者によれば 日本では、そのへんのところが全くかんちがいされている。 「日本人はこれまで模倣ばかりしてきた。もっと創造を大切にしなければならない」というのはけっこうなようであるが、これがおかしなところに向かうから困るのである。 創造を大切にするためるには模倣を大切にしなければならないことが忘れられるからである。
江戸時代の科学史上でもっとも感動的な話といえば、杉田玄白の「蘭学事始」と相場がきまっているようだが、これも西洋医学の正確さに心うたれた人々が、それを模倣するために「解体新書」を訳出するまでの苦心の物語である。「そんなものは本当の科学の創造を物語るものでないから、科学史の話としては感心しない」といっても、日本の科学の歴史は、そういう模倣の重要性の発見とそのための苦心ということからはじまっているのだから仕方がない。 「解体新書」が訳出されたころから、オランダ語の書物を「批判的に読む」よりもまず、「忠実に読む」ことの重要性が浮かびあがってきて、欧米の科学の摂取も本格的になってきたのである。
明治維新を迎えた時、日本人は西洋の学問文化を「批判的に受け入れる」のではなく、ほとんど無条件に受け入れることになった。 それが中国とちがって日本の近代化を成功させた一つの大きな理由となっていることはたしかであろうが、その背後にはこうした幕末の蘭学者たちの西洋文化模倣へのさとりがあったことを忘れてはならない。
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科学史にはいってみれば まずは模倣からはじまったと考えるのはあたりまえのことである。 世界史は文化も文明もみな模倣からはじまったことはいくらでもある。 模倣からはじまっても、そのうちに個性とかオリジナリティーを付け加えればよいだけである。
音楽だって絵画だって、すべてが自分のオリジナルというものはない。 たいていは先人や他人がずっと前につくっている。それを組み合わせたり何か一つ自分の個性を打ち出しているからオリジナリティーがあるというのだろう。 私が日頃から言うのだが、漫画家も先生のアシスタントをしていると先生の絵に似る。まあ、似ないと先生のアシスタントがつとまらないのだが、そのうちにアシスタントも出世して自分も漫画家として一人立ちする。そのときにはちゃんと自分の漫画が描けるようになる。先生の絵にソックリでも、先生とは違う人間だから、やはり漫画も別のものになっていくのだ。
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