講談社の本 2002
父親と子どもの紹介、子どもから見た父親像が写真入りでまとめられている。
金田一春彦と金田一京助 金田一京助は、戦前の修身の本そのままのような非常に真面目な人だった。 真面目なあまり、間違ったことが嫌いな性格で、歌舞伎は史実をねじ曲げているといって観劇中に「違う」と大声を上げたり、ホテルのロビーでプロレスを見ると「反則だ」と騒いで、周りの人を驚かせた。 父は、アイヌ語の文法を明らかにし、ユーカラを記録して後世に残した。北海道各地を自分の足で歩いて調べ上げたが、そのため家族はいつも貧乏の中にあった。 こんな父を見て育った春彦は、学者にだけはなるまいと思ったが、結局学者になった。しかし、春彦は字引をいくつか作ってお金を稼ぎ家族に貧しい思いをさせまいとした。 父も編集者として名を出した字引はいくつかあるが、生活に窮した人に頼まれて名前を貸しただけのようなものもあるから、なかにはとんでもない字引まで父の監修になっている。 その批判を父に告げると「お前は金のために作っている。私は人を助けるためだ」とまるで反省がなかったという。
武田鉄矢と武田嘉元 志願して戦争に行った父 酒を飲むと「敵を○人殺した」と自慢する。 機嫌がよい時は、決まって息子たちを座らせ、歴代の天皇の名前を暗唱する(得意技?)。 武田鉄矢が結婚することになり結納前に両家の引き合わせの席で、義父がなにげなく近衛兵だったと語ると、父親は正座した。近衛兵と一志願兵では立場が天と地の差があったと聞く。終戦後30年近くたってなお、父は戦争中と同じ態度をとってしまうのだった。 義父と父との間にはともに大戦を生きてきたという、うらやましいくらいのシンパシーが通っていたようだった。
藤岡弘と藤岡喜市 初代仮面ライダー藤岡弘の父は警察官で、柔道大会で何度も優勝した。 しかし、藤岡弘が小学六年生の頃に、父は突然行方をくらました。それから一家の暮らしは貧しさをきわめた。学校に給食費さえ持って行けない状態が続いた。 二十数年前、父から突然電話があった。「おまえには財産も何も残してやれなかったが、地位や名誉という財産は他人に奪われることはあっても、生き方という財産は決して奪われない。だから、おまえも誇りをもって生きなさい」父のためにこの上ない苦労したので、何を言うんだという思いだった。 その数日後に父が亡くなったことを知った。父の友人たちから少しずつ失踪の理由を聞かされ、藤岡が長年父に抱いていた不信感が氷解した。 差し障りがあるのでその真相は詳しく語ることができない。だが父のその決断は、昔幼い息子に何度も言った「この国のために生きたい」という言葉どおりのものだった。 この話を聞いて、甘粕正彦のことを思い出した。 甘粕は、陸軍憲兵大尉時代に大杉栄・伊藤野枝・大杉の甥の橘宗一の殺害により短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州映画協会理事長を務めた。 甘粕が幼い子橘宗一まで殺したと言われているが、ある本によると組織のため自分が罪をかぶったことになっている。見合いした時、相手に真相を語ったから、相手の女性も結婚したということである。
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