菅江真澄は、三河国渥美郡の出身である。 江戸時代後期に信州、東北から蝦夷地にいたるまで旅をして 旅先の各地での土地の民族習慣、風土などを記載した。 特に秋田では土地が好きだったのか彼にあっていたのか、30年も住んだ。
秋田では、菅江真澄は 常冠(じょうかぶ)りといって いつも頭にかぶった黒紬の頭巾を寝るときもとらなかったという。 秋田藩主の佐竹義和に拝謁するときも、頭巾は許されていた。 顔に刀傷などがあったからではないかと噂されていた。
柳田国男は彼の民俗学をつくるのに際して、この菅江真澄を大事にとりあつかったという。(ほとんど忘れられていた菅江真澄を世に知らしめたのは柳田国男の功績と言っていいだろう) 菅江真澄の書き残した記録は、当時の人々の生活や風俗習慣を考える上で貴重なものだったからであろう。 しかし、あるときから柳田は菅江真澄からはなれていったという。 菅江真澄の歩いて記録したのは、東北といっても日本海側に偏っていて、三陸などの記録はほとんどなかった。 柳田が日本の普遍的な民俗学を考えるとき、菅江真澄から視点を変えたのだろうか。
遠野物語と菅江真澄は、柳田の民俗学を考える上でキーワードともいえるものだろう。
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