高崎宗司:朝鮮の土となった日本人
浅川巧は朝鮮の林業試験場に勤務し林業の分野で大きな業績を残した他、朝鮮の民芸を愛して、朝鮮人の側に立って不運な朝鮮人を助けたので、今も韓国の人々から尊敬されている。
彼の墓には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれた記念碑が建てられている。
浅川巧が朝鮮の民芸のすばらしさを知ったのは兄伯教(のりたか)の影響である。伯教は尋常小学校の図工の先生で古賀政男も教え子である。
浅川巧との出会いで柳宗悦は朝鮮の民芸品に目を開かせられた。 柳宗悦は浅川巧の誠実な人間性に心を打たれ、巧が死ぬまで深い交流を交わした。それゆえ柳宗悦は浅川伯教・巧兄弟と力をあわせて朝鮮の民族文化を理解しできるだけ守ろうとした。 柳が「朝鮮人を想う」を書いて光化門を守ったとき、浅川兄弟という共通の価値をもつ理解者支援者がいたことが大きい。
浅川巧の日記は少々の美術品とともに、兄伯教からソウル在住の金成鎮に渡された。金はこの日記を朝鮮戦争時も体から離さず大事にもって釜山に避難した。こうして守られた浅川巧の日記は、「浅川巧全集」出版の際に収録されることになった。そして、この日記は浅川巧の故郷の高根町に寄贈された。 この日記には、巧の率直な意見が述べられており、おそらく兄は朝鮮半島から持ち出して日本に持ち帰ってもその後の困難なことを考えて、ソウル在住の金成鎮に託したものと思われる。 関東大震災時の朝鮮人大虐殺を批判したり、朝鮮における日本の威圧的な対応、朝鮮総督府を無理にその位置に割り込んだ建てたり、朝鮮神社を造り問題をあとに残したり等を書いていた。 巧は朝鮮の山林砂防には、むやみに杭を打ち込んだり石垣を積んだり芝を張りつける建設工事ではなく、山と植物の共生を考慮し植物の生存により地盤を安泰にして土壌を肥やすべきだと主張し林業試験場長の指示に従わず自分の考えを実施し、のちに場長を納得させる。 浅川巧は朝鮮の服を着て、言葉も彼らの言葉を話した。女の乞食には金を与え、何人もの貧しい家庭の子弟たちには奨学金を与えて学校を卒業させた。 林業試験場の給料は技手なので高いものではなかったが、給料の六割の外地手当があったから、朝鮮の人よりは裕福だったことで贖罪の気持ちがあったのではないかと著者は推定している。
「朝鮮の膳」で固有の民族文化を大切にせよと訴えた。
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