永藤武:善悪のかなたへ 親鸞
中高生向きに親鸞の伝記を述べた本 日本教文社
日本の僧侶で最初に妻帯した。それは聖徳太子が六角堂に現れて親鸞に語りかけたのだという。 妻帯については法然上人から許しを得ている。
六角堂の後に法然に入門する。法然に会ってから六角堂のことがあったとする説もある。 「この世の生き方は、まず何より、少しでもよく念仏を唱えられるようにと、それを第一に心がけて生きるべきである。念仏の妨げになるようなことだけは、嫌(いと)い捨てるべくなのだ。もし、一ところにとどまっていては唱えられないというなら、修行者となって唱えなさい。修行者となって唱えられないというのなら、家庭の人となって唱えなさい。妻をめとるのは、自身が助けられて、よりよく念仏を唱えるためである。もし念仏の妨げとなるようなら、決して娶るべきではない。このことを心して、あとは自分で判断しなさい」
結婚して善鸞誕生する。 越後に流される。 (1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処する。 この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。
越後配流時に、豪族・三善為教の娘、恵信尼と越後で結婚する。
明信誕生。 流罪が許される。
越後を離れ関東に向かう。 覚信誕生。
妻子とともに京に戻る。
恵信は越後に行き、一家は離散する。 京に残ったのは、親鸞、善鸞、覚信の三人。
善鸞と縁を切る。
病をおして訪ねてきた下野国の覚信房らに教えを語る。これがやがて「歎異抄」の一部としてまとめられる。
恵信、越後で病につく。
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親鸞は当時の僧侶としては最初の妻帯者となったが 神聖ローマ帝国のルターも宗教改革者として有名だが やはり聖職者の結婚を是とした最初の聖職者であった。
カトリック教会では伝統として聖職者の独身が守られてきた。 司祭であったルターも独身生活を続けていたが、だんだん考えが変っていった。 修道者のように神のために結婚しないことをよい考えていたが、肉体的欲望に悩まされるのなら結婚するべきだと思うようになった。 結果としてルターは数多くの修道者たちに結婚をすすめるようになった。 彼自身も、41歳の時に26歳の元修道女と結婚し、三男三女を得ている。
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