画像サイズ: 390×520 (54kB) | ピエール・パリュエなど云っても知ってる人はまず一人もいないと思う。乗船5日目に、あっしらは可愛らしい美術館に立ち寄った。「ピエール・パリュエ美術館」という。
この日の目玉はワインテイスティングだったから、大した期待はなかった。たしかにバス一台分のひとたちを収容するにはあまりにも狭かった。
しかしこのボルドー生まれの画家の交友はなかなかのものだった。伝記によると、1943年、23歳の時には、ちょうど当時住んでいたドローム県のサン・ドナ村で、詩人のルイ・アラゴン、エルザ・トリオレに会っている。共産党員であったかれらは、当局の目を逃れて各地を転々、いわゆる地下へ潜っている最中だった。パリュエは薬局の手伝いをしながら、その村でほそぼそと絵を描いていた。
その後、ヴァランスの美術学校へ行き、また、ミルマンドではアンドレ・ロート★の指導を受けた。1944年にはシュルアンデパンダン展に出品、また45年には「トマト」と云う作品が、パリのオスマン大通りのウィンドを飾るまでになった。
47年、マリーという伴侶を得て、ドローム県のシャヴァンヌを終の棲家に決めた。50年にはリヨンに本拠を置く「無イズムの会」の展覧会に出品。それ以後は高校の美術教師をしたりロマンに美校をたちあげ、それの運営をしたりしたが、この時期ベルナール・ビュッフェに会ったのは大きな事件では。
50、60年代になると、パリ、NY、ジュネーヴなどで展覧会を開催、画集も英米で出版。2000年には娘のマリーの協力でタン・エルミタージュに「新エコールドゥパリ」つまり、「新パリ派(もちろん当のパリュエも含まれる)美術館」を開館。そして2005年には大勢の子や孫に見守られながら息を引き取った。
あっしらは、ここでその娘さんの、マリ−さんに会った。非常に笑顔のうつくしい人であった。写真左はガイド。
★立体派風の絵を描く人で、日本の黒田重太郎、川口軌外がこの人の画塾にいたことがあるという。 |