図書館で 泉鏡花研究の本を読んでいます。 > ジオラマは、「春昼」でした。
春昼の「かすかに照らせ山の端の月、と申したやうに」の叙述は 和泉式部の「くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ月のはの月」を本歌とするのだろうと述べられてあります。
「其の影が、よろよろと舞台に出て、御新造と背中合わせにぴったり坐った処で、此方を向いたでございませう。顔を見ると自分です」とドッペルゲンガーを登場させて壮絶な印象をあたえているのだそうです。
有名な話ですが 泉鏡花の妻・すずは、もともと神楽坂に桃太郎という名で出ていた芸妓でした。 師紅葉は二人の関係を絶対にゆるさず、「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで鏡花に迫ったのです。 二人はお互いを想いながらも泣く泣く離別を決意し、この体験が『婦系図』の湯島天神の場の下敷きになったわけです。 紅葉の没後、鏡花はすずと結婚し、夫婦仲ははなはだよかったのでした。
鏡花の母が鈴という名だったから、芸妓すずにひかれたのかもしれません。 実は鏡花の妹もすずのような身の上だった(あとで鏡花が妹を救ったそうです)ので、すずには同情もあったようです。 尾崎紅葉は一番弟子の泉鏡花には、自分が良家の娘を嫁に世話したかったのでしょうが 当人たちにとっては親切の押し付けだったようです。
漱石「草枕」の「峠の茶屋」の一場面は、泉鏡花の「山中哲学」の冒頭の部分とそっくりだそうです。 文章そのものは変えてありますが、表現されている峠の茶屋の、鶏が羽ばたきして、臼から飛びおり、煙草盆が閑静に控えている等など、具体的にここではこれ以上書きませんが、研究者村松定孝は、漱石が鏡花の「山中哲学」を参考にしたと結論づけています。 そんなわけで、生活に窮していた鏡花が「白鷺」の原稿を漱石に頼んだところ 漱石はあっさりと朝日新聞に推薦してくれ、泉鏡花は大いに喜び漱石に感謝したそうです。 漱石は何も言わなかったけれど、鏡花に世話になったことのお返しをしたつもりだったかもしれません。
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