画像サイズ: 816×612 (97kB) | > 江戸東京博物館の特別展 > 「江」
場所柄か お相撲さんの姿を見かけます。
この展示では なんといっても今回発見された江の宮殿(厨子)
兄家光のつくった芝増上寺の江(崇源院)の霊廟は戦災で焼けてしまった。 だが、弟忠長が静岡につくらせたものが目黒の祐天寺に移されてあって 今回発見され特別展示となったのです。
三代将軍を誰にするかで、「江」と秀忠は手元で育てた忠長を推薦するのですが、 春日局は自分が育てた家光があぶないと家康に直訴して、年の順ということで けっきょく家光将軍となるのですが、どちらも江の息子です。 この件では、家光と忠長の間の仲が悪くなり、のちに忠長は謀反の疑いで改易さらには自害という末路をむかえます。
実の弟を嫌った秀忠でしたが、異母弟正之とは気があったのか可愛がりました。 正之は会津藩主となります。 家光は死にのぞんで枕もとに正之を呼び寄せ、「宗家を頼みおく」と言い残します。 これに感銘した正之は「会津家訓十五箇条」を定め 「会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記します。 幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、最後まで薩長軍と戦うことになります。
秀忠の正妻の江の死後、18歳の正之は初めて父秀忠との面会を果たすことができます。 忠長は、秀忠と保科正之の初めての親子の面会の実現にも尽力しているので 人間的には情をわきまえたやさしい人間であって、時の権力者が違う記録を残したのではないかと学芸員は述べていました。 http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=16443&mode=allread
今回目玉の江の宮殿(厨子)は目黒の祐天寺にありますが 今後公開されないだろうとは、江戸博関係者の説明ですが さてどうなるでしょうか。 |